匂いは、頭より先に身体が受け取る
梅雨の手前、福岡の空気が少し重くなり始めたある朝のこと。
実家の庭に踏み込んだ瞬間、土と青草が混ざったあの匂いが鼻をついた。
頭がそれを「夏の前触れだ」と認識するより、ずっと早く、身体がぐっと反応していた。
言語化が追いつかないところに、感覚の本体がある、ということに気づく。
香りというのはおそらく、五感の中でもっとも言葉に変換しにくい情報だ。
視覚なら「赤い」「丸い」と言えるし、音なら「低い」「リズムが早い」と描写できる。
でも匂いはどうだろう。
「土みたいな」「懐かしい感じの」——どこまでいっても比喩にしかならない。
それがかえって、記憶と直接つながっている理由なのかもしれない、と思う。
仕事でサウンドデザインや食の商品開発に関わっていると、「感覚を言語に落とす」という作業が日常的に発生する。
でも香りの場合、言語化するほどに何かが薄れていく、という不思議な感覚がある。
むしろそのままにしておいた方が、身体の記憶として鮮明に残る——そういう結論に到達した。
庭の匂いが教えてくれる、季節という身体知
はるとが子どもの頃、実家の小さな庭には金木犀が植わっていた。
秋になると、窓を開けた瞬間にあの甘い匂いが部屋に流れ込んできて、「あ、秋だ」と思った。
カレンダーより、気温計より、確実にそれで季節を知っていた。
これは都市で育った子どもがもつ、数少ない身体知のひとつだと今では思う。
アスファルトの照り返しとは別の、植物を通じた季節の手渡し。
福岡は街と緑の距離が近い。大濠公園を歩けば、風の匂いが月ごとに変わることに気づく。
そういう環境がはるとの感覚の土台を作ったことは間違いない。
最近、取材で農家さんの畑に足を運んだとき、同じことが起きた。
摘みたての葉をひとつ手のひらに乗せ、鼻を近づけた瞬間——言葉より先に、身体の奥のどこかが「知っている」と言いはじめた。
子ども時代の庭の記憶と、今の感覚が、匂いというルートで直接つながっていた。
言語を介さない記憶の回路というのは、確かに存在する。
そしてそれを一番クリアに呼び覚ますのは、匂いなのだ、ということが明らかになった。
感覚を閉じないでいることが、表現の原料になる
大人になると、匂いをわざわざ確かめる機会が減る。
気忙しく動き回る中で、感覚のチャンネルを無意識に絞ってしまう。
でもはるとは、この「感覚を開けておくこと」を仕事の基盤にしていると感じている。
体験型コンテンツや食の企画を作るとき、自分が五感で受け取ったものがそのまま原料になる。
匂いで呼び起こされた記憶、それに紐づく感情、その質感——それをなんとか形にしようともがく過程が、ひとつの仕事だ。
言語化できなくてもいい。
ただ、感覚を閉じないでいること。
季節が変わるたびに庭に出て、空気の匂いを確かめること。
その小さな習慣が、身体の記憶を更新し続けてくれる、という感覚がある。
匂いは、頭を飛び越えて身体に語りかける。
そのルートを大切にしておきたい、と思う。


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