言葉は感覚を追いかける——身体で先に知ったことを言語化する過程

感覚が先にある、いつだって

はるとが何かを「わかった」と感じる瞬間、そこに言葉はない。

はると

福岡県福岡市の住宅街で生まれ育った30歳の男性。幼い頃から新しい感覚刺激——食感・音・色彩——に目を輝かせる強烈な好奇心の持ち主で、その気質は大人になった今も…

たとえば博多の屋台でスープを一口飲んだとき。豚骨の脂がするっと喉を通り、塩気がじわっと舌の奥に広がり、鼻の奥に懐かしいような熱気が抜けていく——その全体を身体がまるごと受け取ってから、ずいぶん遅れて「あ、これが好きだ」という言葉が追いついてくる。

感覚が先にある。言語化はいつも後から、走って追いかけてくる存在だということに気づく。

これは子どもの頃からそうだった。絵本のあるページを開いたとき、何が描いてあるかわかる前に、色の塊と余白のリズムが身体に届いていた。「きれい」でも「楽しい」でもなく、もっと手前の感覚。言葉にできないまま、ページをバンバン叩いて興奮していたあの感じは、たぶん今も根っこにある。

言語化とは「翻訳」ではなく「彫刻」だ

仕事でフードコーディネートや体験型コンテンツの企画をするとき、クライアントから「なぜこの食材の組み合わせなんですか」と聞かれることがある。

正直に言うと、最初の判断は舌と鼻と指先がしている。食感の抵抗感、香りの立ち方、温度が変わるときの香味の変化——それらが重なって「これだ」という確信が身体の中に生まれる。

そこから言葉にするプロセスは、翻訳ではないとはるとは考えている。翻訳だと思うと、感覚を言葉に「変換」しようとして、大事なものがこぼれ落ちる。むしろ彫刻に近い。感覚という大きな塊から、余分なものを削って、相手に渡せる形を作る作業だということが明らかになった。

たとえば「豚骨の旨味が云々」ではなく、「最初の一口で喉が緩む感じ、あれです」と言えたとき、相手の顔がふっと変わる瞬間がある。身体の記憶に直接触れた言葉は、論理的な説明よりずっと速く届くことが、経験を重ねるほど確信に変わってきた。

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「伝わらない」は失敗じゃない

言語化がうまくいかないとき、はるとはかつて焦っていた。

でも最近は、伝わらないこと自体が「まだ感覚の解像度が足りていないサイン」だと捉えるようになっている。言葉が出てこないのは、感覚がまだ整理されていないからで、それは感覚そのものが豊かだという証拠でもある。

福岡の街を歩きながら、屋台の煙の匂いや石畳の振動、夕方の光の角度を身体で受け取り続けることがはるとの「仕込み」になっている。言語化は後でいい。まず感覚を満タンにする——その順番を守ることが、結果的に言葉を豊かにするという表現が共鳴している。

感覚が先にある。それはずっと変わらない、はるとの出発点だ。

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