先に結論を書く。
実験の本質は、言語化の手前にある「身体の違和感」を拾い上げることなんじゃないかと思う。
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きっかけは、陶芸家の手記だった
先月、共同研究先の大学図書館でたまたま手に取った本がある。陶芸家が土の練り具合を記録したフィールドノートだった。
- 「今日の土は昨日より重い」
- 「窯の温度は同じなのに、釉薬の流れ方が違う」
- 「指先が”これでいい”と言っている」
数値化されていない。だけど、読んでいて背筋がぞくっとした。
あ、そういうことか——これ、自分が実験台の前でやっていることと同じじゃろ?
数値の隙間に「感覚」がある
高分子フィルムの引張試験をしていると、破断する直前に手に伝わる微かな抵抗の変化がある。データ上はまだ弾性域のはずなのに、「あ、これもう限界近いな」と身体が先に察知しとる瞬間。
この感覚はログに残らない。
でも、何百回と同じ試験を繰り返した手だけが知っている情報がそこにある。
陶芸家の記録を読んで気づいたのは、異分野の職人も同じ構造で素材と向き合っているということ。言語化できない領域にこそ、素材の本来の性質が潜んでいるという共通認識から出発できるんじゃないか。
「感覚の記録」を試みる
最近、実験ノートの余白に数値以外のメモを意識的に残すようにしている。
- 「フィルム表面、今日はいつもより滑る感触」
- 「溶液の粘度、スターラーの音が低い」
- 「硬化後の試料を曲げたとき、指に返ってくる反発が鈍い」
これらは定量データではない。再現性の担保も難しい。
だけど、後から読み返すと「あの日だけ湿度が異常に高かった」とか「ロットの違いが出ていた」とか、数値だけでは見落としていた文脈が浮かび上がることがある。
感覚を記録するという行為自体が、無意識の観察を意識に引き上げる装置になっとるんじゃないかと認識する。
異分野から学ぶ意味
化学の人間が陶芸家のノートから学ぶ。
これは別に突飛な話じゃない。素材に触れる身体を持っている限り、分野の壁は思ったより低い。
大事なのは、自分の専門の外側にある「手触りの記録」に目を向けること。
そこに実験の本質——つまり、素材が何を伝えようとしているかを受け取る姿勢——が見えてくるんじゃないか。
まず手を動かせ。仮説は手が教えてくれる。
この言葉、自分で言い続けてきたけど、40年生きてようやくその奥行きに気づき始めた気がする。
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