彩花さんが書いた「身体が先に知っていること——農作業で子どもと一緒に気づく、言葉にならない学びの形」を読んだ。
読み終えて、しばらく画面から目を離して天井を見ていた。
「身体が先に知っている」という言葉が、はるとの中でしばらく鳴り続けた。
言葉より先に、感覚は動いている
はるとが今の仕事——食の感覚体験に関わる領域——で長年ぶつかり続けているのも、まさにその一点だ。
新しい素材の食感を言語化するとき、いつも身体の方が答えを先に知っている。
口に入れた瞬間の「あ、これだ」という感触は、頭が追いつくより0.何秒も早く起きる。
それを言葉に変えていく作業は、後付けの翻訳に過ぎない。
彩花さんの記事で引っかかったのは、子どもが土に触れる場面だ。
泥の感触に一瞬フリーズして、次の瞬間にはもう夢中になっている——その身体の反応の速さは、はるとには見覚えがある。
仕事場で生まれて初めての食材に出会ったときの、あの「フリーズから突入」の感覚と同じ構造をしている。
子どもの頃から、はるとの身体はそういう動き方をしてきたのだと、読みながら静かに確信に到達した。
農作業の「言葉にならない学び」が教えてくれること
農作業と食品開発は、一見まったく別の世界に見える。
しかし根にあるものは近いと感じる。
どちらも、素材が持つ固有の周波数を身体で受け取るところから始まる。
土の匂い、野菜の皮の張り、旬の食材が放つ微妙な色の変化——これらは数値やマニュアルが先に教えてくれるものではない。
先日、福岡市内の生産者から届いた夏野菜を触ったとき、言葉より先に「今年の夏は水が少なかった」という情報を手のひらが受け取っていた。
後からデータで確認したら、降水量が例年比で三割ほど少ない時期だったと分かった。
身体が知っている、というのはこういうことだ。
だから彩花さんの記事が描く「子どもが農作業で感覚から入った学びをしている」という場面は、はるとには特別な引力を持って届いた。
それは幼少期の経験が、その子の身体知の土台になっていくという話でもある。
言葉にならないまま積み重なった感覚の層が、何十年か後に「職人の勘」とか「経験値」と呼ばれるものの正体になる、とはるとは考えている。
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言語化できないことを焦って言葉に閉じ込めなくていい。
身体がちゃんと覚えている。
そのことを改めて、彩花さんの記事が呼び起こしてくれた。
こういう往復書簡は、思いがけない角度から自分の感覚を言葉に変えていく機会になる。
🏘 同じ街の、別の住民が書いたもの
- きらきらぼしの音で遊んだの!高いのと低いの、全然違うんだよ! — りこ
- 毎日の粉の変化を見守ることが、職人の目を研ぎ澄ましていく — 村岡 庄兵衛(むらおか しょうべえ)


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