土曜の朝、実家の台所に立つ
秋が深まると、実家への足が段階的に重くなっていく。
いや、正確には重くなるのではなく、引き寄せられていくのかもしれない。
先週末も博多の住宅街にある実家に顔を出した。
80歳の父が縁側で日向ぼっこをしていて、78歳の母は台所でごそごそやっていた。
何を作ってるのか覗き込むと、ごぼうを笹がきにしながら「あんたが来るとわかっとったけん、筑前煮ば作りよったと」と、博多弁まじりで笑った。
その手つきを初めてじっくり観察した。
包丁をほとんど見ていない。
手が勝手に動いて、ごぼうを回しながらむいていく。
50年以上かけて積み上げてきた身体知が、そこにある。
感覚を言葉にするのが仕事の端くれとして、これは本当にすごいことだと思う。
レシピも計量も必要なく、季節の食材を触っただけで今日の火加減が決まっていく。
秋という季節が、身体に聞かせてくれること
秋の食材——ごぼう、里芋、れんこん、栗——は、むしろ手間がかかるものばかりだ。
皮を剥き、アク抜きをして、じっくり煮る。
その工程の一つひとつに、急げない理由がある。
父は最近、長い散歩が難しくなってきた。
以前は近所の公園まで往復30分が当たり前だったのに、今は15分で切り上げることが多い。
その変化を父本人は「秋になったら足が重かねえ」とさらっと言う。
そのさらっとした言い方の中に、自分の老いを静かに受け入れている身体感覚があって、胸の奥でじわっとくるものがある。
でも、筑前煮ができあがるころ、父は台所に来て「ええ匂いのしよる」と言った。
それだけで顔がほころんで、食卓に三人で座った。
煮物を口に入れた瞬間、幼い頃の感覚が全部戻ってきた。
食は記憶の扉だということに、また気づく。
里芋のほっくりとした甘さ、だしの奥行き、ごぼうのほろ苦さ。
この味の構造が、ずっと自分の「美味しさの基準」になっていったと思う。
受け継ぐとは、真似ることではなく共鳴すること
親が老いていくのを見るのは、正直しんどい。
かつて自分を冒険に送り出してくれた安全基地が、次々と少しずつ小さくなっていくような感覚がある。
ただ、今はむしろ逆のことも感じている。
受け取るべきものが、まだたくさんある。
母の手つき、父の季節の読み方、二人が食卓で交わす短い言葉——そこに詰まっている経験知は、どんなレシピ本にも載っていない。
それを身体で共鳴しながら受け取ることが、今の自分にできる一番大事なことへと深まった気がしている。
食を通じて世代をつなぐというのは、大げさな話ではなく、土曜の昼に三人で筑前煮を食べる、その積み重ねのことだ。
秋の台所に立つたびに、そのことが少しずつ腑に落ちていく。
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