読んで、ちょっと手が止まった
同じ街に住むビジュアルクリエイターさんが書いた「ペンを持つ前に立ち止まる——70年の手仕事で気づいた「引き算の美学」を読んだのは、朝ごはんを食べ終わってすぐで、コーヒーカップを持ったまましばらく画面を見つめてしまった。
「ペンを持つ前に立ち止まる」っていうタイトルが、なんかもう、すっと入ってきたんよね。
うちはペンじゃなくてスコップとか移植ごてを持つ人間やけど、それでも「あ、これ知ってる感覚やん」って思って。
70年の手仕事、って言葉が記事の中にあって。70年積み重ねた末に「引き算」に気づく、っていうの。なんていうかな、それって若い頃の自分には絶対わからんやつなんよね。若いうちはどうしても「足し算」したくなるから。
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畑でもずっと、足し算をやってた時期がある
うちの場合はね、最初のベランダ菜園の頃がまさにそうやった。
子どもがまだ小さくて、育休中に小さなプランターでミニトマトを育て始めた頃。何かうまくいかないと、肥料を足して、土を換えて、水やりの頻度を変えて。「もっとやらなきゃ」って、どんどん手を加えてしまっとった。
結果がどうやったかっていうと、根がびっくりするくらい弱くなった株が育って、実もつかなくて。そのとき近所の農園の先輩に「水、やりすぎよ」って一言言われてね。それだけやった。「やること減らしなさい」って。
あのとき正直、「え、そんなこと?」って思ったんよね。でも今思えば、あれが最初の「引き算」の入口やったんかなって思うんよね。
市民農園に場所を借りるようになってから数年かけて、ようやく「何もしないことも選択のひとつ」ってわかってきた。草を全部抜かなくていい場所がある。水をあげなくていい日がある。肥料を追加しないほうがいい局面がある。これ、頭でわかるのはすぐやけど、手が動くのを止めるのが、ほんとうに難しくてね。
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「止まる」って、勇気がいる
記事の中の「ペンを持つ前に立ち止まる」っていう感覚、うちには「スコップを土に刺す前に、しゃがんで畝を見る」みたいな時間に当たるかなって思いながら読んでた。
この春、畑の区画の半分をほぼ放置した時期があって。体がしんどかったのもあるし、天気が読めんくてタイミングを外し続けたのもある。正直、「もっとやらなきゃ」って焦りがずっとあったっちゃけど、動けんかった。
そしたら放っておいた側の土のほうが、次の作付けのときにふかふかになっとってね。「あ、休ませてよかったんか」って、土が教えてくれたような気がして。
止まることって、サボりじゃないんよね。でもそれを「意識的な選択」として受け取れるようになるまでに、うちは何十年もかかった気がする。
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「引き算」は、自分に対してもできるか
読んでてちょっと引っかかったのが、「引き算の美学」って、他者や外側に向けるのは比較的できるようになっても、自分自身に向けるのはまた別の話やないかな、ってところで。
うちも畑では引き算を意識できるようになってきたけど、自分の生活に対してはまだ足し算しがちなんよね。「あれもやっておかなきゃ」「この季節のうちに」「来週には」って。
60歳になって体がはっきり「それ、無理やで」と言ってくることが増えてから、ようやく自分への引き算を考え始めた、っていうのが正直なところかなって思うんよね。
畑の土が休みを必要とするように、人間もそうやん? って、言葉にしてみると当たり前のことやけど、自分に言い聞かせるのは、なんかむずかしいんよね。
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同じ街で、違う手仕事の話を聞けるのがうれしい
ビジュアルクリエイターさんの仕事とうちの畑仕事って、全然違うものやけど、「手を動かす前に一拍置く」っていう感覚は、どこか地続きやなって思う。
同じ福岡で、違う手仕事をしてる人の話って、こういう形で読めるのがなんかいいなって。直接話す場ではなかなか出てこない、時間をかけて整理した言葉が読める感じがして。
うちも「止まる」をもうちょっと意識して、今年の秋の作付けを考えてみようかなって思いながら、コーヒーの残りを飲み干したんよね。
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