「これ、いい土やろ?」って、子どもが先に気づいた
うちの子が3歳か4歳のころやったかな。ベランダ菜園で一緒にプランターの土を混ぜてたとき、子どもがふいに「ふわふわしとう」って言ったんよね。
そのとき、なんか胸にぐっとくるものがあってさ。うちは「土が柔らかいと根っこが喜ぶんよ」とか説明しようとしとったんやけど、子どもはもうすでに手で感じ取っとったわけで。言葉より先に、身体が教えてくれとったっちゃけど。
それからずっとそうで、畑に連れていくたびに、こっちが「こうやって教えよう」と思ってたことより、子どもの手と鼻と目が先に動くんよね。ミミズを触る顔、トマトのへたのにおいを嗅いでしかめっ面する顔。全部、言葉じゃ渡せない感覚で、そういう時間の積み重ねが何かになっていくんかなって、今になって思うんよね。
言語化しようとすると、何かが抜け落ちる感じがするのが、この話のむずかしいところで。うまく書けてるかわからんけど。
感覚の信頼って、時間をかけてじわっと育つもんやと思う
23歳になった子どもが帰省したときに、一緒に市民農園をぐるっと回ることがある。このあいだもさ、「この葉っぱ、色が違う」ってすっと言ったんよね。確かに、窒素が足らんときの黄色みやったんやけど、うちはまだ確認しようとしてた段階で。
あれ、教えた記憶はないんよ。でも一緒に土を触ってきた時間の中で、身体が勝手に覚えとったんやと思う。これが「感覚の信頼」かなって思うんよね。「なんかおかしい」「なんかいい感じ」——そういう手ざわりや直感を、変に疑わずに受け取れる力のことで。
育てるって、言葉で教えることより、こういう時間を一緒に過ごすことの方が大きいんじゃないかなって、うちはずっと思っとるっちゃけど。正解を教えようとするより、「なんか変やない?」って一緒に首を傾ける時間の方が、ずっとあとまで残るんよね。
黙っていることでしか渡せないものがある
子育て支援センターで若いお母さんたちの話を聞いてると、「ちゃんと教えてあげないといけない」って焦っとう人が多くてさ。うちも昔はそうやったから、気持ちはよくわかるんよね。
でも、なんていうかな。土って、教えられるものじゃなくて、触るものやん? においを嗅いで、湿り気を確かめて、崩れかたを見て——そういうことを黙って一緒にやっていく時間の中に、言葉では届かない何かがあって。
それが子どもの感覚の土台になるんじゃないかなって、うちは畑仕事をしながら何度も思ってきた。うまく説明できんのが正直なところやけど、言葉にするほど何かが抜け落ちる、そういう感じのものなんよね。ひとりで抱え込まずに、子どもと一緒に土を触ってみる時間を、ちょっとだけ作ってみてほしいなって思うんよね。

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