畑で気づいたこと
うちの子が小学校低学年のころ、市民農園の畑に一緒に来てもらうのが日課みたいになっとったんだけど、そのころはまあ正直、半分は「つれてくる場所がない」からやったっちゃよね。子どもを公園に放っておくのも心配やし、かといって家に留守番させるのも早い。それで畑に連れてきて、「じゃあそこの草むしりしてー」とか言いながら、うちはうちで作業しとったんよね。
そのとき不思議やったのがさ、子どもって、教えてないのに土の感触で「固い」「やわらかい」を判断するんよね。水をやりすぎた日の翌日とか、「なんかぬるぬるしてちょっと嫌」って自分から言い出して。言葉にならないけど、手がちゃんとわかってる、みたいな感覚があるっちゃよね。
当時はあんまり深く考えてなかったんやけど、今になって振り返るとあれって、身体知みたいなものだったんかなって思うんよね。言葉で「水はけ」とか「土の湿度」とか説明する前に、手がもう知ってる。そういうことって、案外大事なんじゃないかな、って。
13歳になった今も、その感覚は続いてる
今年で13歳になったうちの子はさ、反抗期というか、なんか距離感が変わってきたなって感じる時期ではあるんよね。あんまりベタベタ話しかけると「わかっとうやん」みたいな顔をされたりして、こっちも「あ、そっか」ってちょっと引くことが増えてきた。
でも畑だけは、不思議と一緒に立てるんよね。
この前の週末、ナスの誘引作業をしながら横に子どもが来て、「この枝、折れそうじゃない?」って自分から言い出してさ。実際に確かめてみたら、確かにちょっと裂けかけとって。うちが見落としとったやつを、子どもの手が先に気づいとった。
言葉より先に手が動く、その感覚ってさ、畑を一緒にやってきた時間の積み重ねやと思うんよね。なんていうかな、教え込んだんじゃなくて、隣で一緒にいた時間が、子どもの中に静かに残っとったんかな、って。
「教えなくていい」ってこういうことかもしれない
子育てって、どうしても「何かを伝えなきゃ」ってなりがちじゃない?うちもそうだったんだよね。食の安全とか、野菜の育て方とか、せっかく畑があるんやけん教えなきゃ、って焦ってた時期があったっちゃけど。
でも実際に子どもの手が育ってきたのって、そういうときじゃなくて、ただ隣にいた時間のほうやったんじゃないかなって思うようになった。教える言葉より、黙って一緒に土をさわってた時間のほうが、身体に残るんよね。
人によるんやろうけど、畑って、親子の間で言葉が要らない時間をつくってくれる場所みたいな気がしてて。それが今、ちょっとありがたかったりする。思春期の子どもと、何話せばいいかわからんって日にも、鍬を持ってそこに立てば、なんかそれでよかったりするっちゃよね。
言葉にするより前に、手が知っていることを信じる。それって子どもだけじゃなく、うち自身にも言えることなんかもしれない、ってこの頃ぽつぽつ思うんよね。
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