なんかさ〜、この前ふと気づいたことがあって。
市民農園で3歳の子どもと一緒にさつまいもの蔓を返しとったとき、うちが何も言わんうちに子どもが土のにおいを嗅いで「あめのにおい」って言ったんよね。雨上がりの湿った土の感覚を、あの子はもう身体で知っとった。
うちの場合はね、菜園を始めた最初の頃は「これがトマトの苗よ」「こうやって水をあげるんよ」って言葉で教えようとしとった。でも実際に子どもが吸収しとるのは、そういう説明やなくて、もっと手前の部分。土を握ったときの冷たさとか、葉っぱをちぎったときの青臭いにおいとか、朝と夕方で畑の空気が変わること。言葉にする前に身体が先に拾い上げとるものがある。
えーっとね、なんていうかな。うちの母親もそうやったなって最近よく思い出す。実家の台所で、祖母が漬けた糠床のにおいがした。母はその匂いについて何も語らんかった。けど、うちの身体にはあの発酵の湿った重たい香りがちゃんと残っとる。誰にも教わってないのに、スーパーで糠漬けを見ると手が伸びる。あれは言葉やなくて、感覚で渡されたものやったんやなって。
季節の移り変わりもそうで。「秋になったら〇〇を植える」っていう知識は本にも書いてある。けど、朝の空気がすっと変わった日に「あ、そろそろやな」って身体が反応する感覚は、畑に通い続けた身体だけが知っとること。うちはそれをまだ言葉にできん。でも子どもは隣で同じ空気を吸って、同じ土に手を突っ込んどる。
それでいいんかなって思うんよね。
全部を言語化して丁寧に伝えることだけが継承やないっちゃけど、そもそも言葉にならん身体知のほうが、暮らしの土台としては深いところに根を張るんやないかなって。におい、温度、手触り、季節の空気——そういうものが親から子へ、土ごと手渡されていくことを再認識した日やった。
子どもが大きくなって、あの畑のことを覚えとるかはわからん。けど身体のどこかに、雨上がりの土のにおいが残っとったらいいなと思う。うちの中に母の糠床のにおいが残っとるみたいに。
言葉にせんまま渡すことが、たぶんいちばん正直な継承なんよね。
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