ある会議で起きたこと
この前、ある子の支援についてカンファレンスがあったんですよね。医師、保育士、そして保護者の方が同じテーブルについて、同じ子どもの話をしている。なのに、途中から明らかに空気がズレていった。
医師は「集団場面での行動観察の結果、○○の傾向が見られます」と説明してくれた。保育士は「でも園では最近、お友だちと笑い合う場面が増えてきたんです」と伝えた。保護者の方は少し黙ったあと、「……家では全然そういう感じじゃなくて、毎晩パニックになるんです」とぽつりと言った。
三者とも嘘をついていない。全員が「この子のために」と思っている。それなのに、話が噛み合わない。
いや、ほんとにさ……この場面、何度経験しても胸がぎゅっとなる。
なぜ「同じ子ども」の話がすれ違うのか
これ、要はね、見ている文脈がそれぞれ全然ちがうんですよね。
- 医師は限られた診察時間・検査場面での行動をもとに、医学的な枠組みでアセスメントしている
- 保育士は毎日の集団生活の中で、他の子との関係性や小さな変化を長期的に見ている
- 保護者は家庭という一対一(あるいは家族)の密な空間で、夜の崩れや朝の不安を全身で受け止めている
「園では落ち着いています」という報告が、保護者にとっては「じゃあ家で暴れるのは私のせい?」に聞こえてしまうことがある。医師の「経過観察で」が、保育士には「今すぐ何かしてほしいのに」と感じられることもある。
誰も悪くない。でも、見えている景色がちがうまま言葉だけを交わすと、「こんなはずじゃなかった」がお互いの中に積もっていく。
すり合わせのために、私が現場で意識していること
偉そうなことは言えないけれど、日々やっている中で少しずつ手応えを感じていることを3つだけ書いておきます。
① まず「時間帯」と「場面」を明示する
「落ち着いています」ではなく「午前の自由遊びの時間、ブロックコーナーで15分くらい集中して遊べていました」と伝える。場面を限定するだけで、保護者は「ああ、家の夜とは別の話なんだな」と受け取りやすくなる。医師にとっても、園のどの文脈での観察かが分かると判断材料の精度が上がる。
② 保護者の言葉を”翻訳”せずにそのまま共有する
カンファレンスの場で、つい専門用語に置き換えたくなるけれど、保護者が「毎晩パニックになる」と言ったなら、その言葉のまま記録にも残す。「かんしゃくが頻発」とか書き換えると、しんどさの温度が消えてしまう。保護者の体感温度を他職種に届けることが、連携の”通訳”の仕事だと思ってる。
③ 「で、誰が次に何をするか」を必ず決めて終わる
話を聞いて共感し合って、「じゃあ様子を見ましょう」で終わるカンファレンス、正直まだまだ多い。でもそれだと、保護者は「結局何も変わらない」という無力感を持ち帰ることになる。小さくてもいいから「来週、園での午睡前の様子を動画で記録して次回共有します」みたいに、具体的なアクションと担当者を決めて終わる。これだけで空気が変わる。
制度の隙間は、人の手で埋めるしかない(今は)
正直に言うと、医療機関と保育現場の連携って、制度としてきれいに整備されているわけじゃない。個人の信頼関係と、お互いの「この子のために」という気持ちで回しているのが実情だと思う。
児童発達支援や保育所等訪問支援の仕組みはあるけれど、使いこなせている地域とそうでない地域の差は大きいし、忙しい小児科の先生に「園の様子を共有したいんですけど」と連絡するのも、タイミングや関係性がないとなかなか難しい。
でもね、だからこそ「すり合わせ」を諦めたくない。見えている景色がちがうなら、それを持ち寄るだけでいい。全員が同じ結論に至る必要はなくて、「あなたの目にはそう映っているんだね」を知ること自体が、次の一歩になる。
完璧な連携なんてどこにもない。でも、つながろうとする意志があれば、子どもはそのゆるい網の目の中で少しだけ安心して育てる——そう信じて、明日もカンファレンスの調整メールを打ちます。
🏘 同じ街の、別の住民が書いたもの
- 同じ場所に何度も足を運ぶことの意味——石蔵の漆喰ひびから公民館の教え手育成まで — 堀田 省三(ほった しょうぞう)
- 木の音が聞こえたら、もう手が動いちゃう。 — そうすけ
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