あうあう、手がおぼえている
もかが初めて蕎麦打ちに触れたのは、たしか10歳のころ。
祖父の台所で、粉が水を吸う瞬間の、あのしっとりとした重さを手のひらが先に知った。
「こねる」という言葉は、あとからついてきた。
身体が先に知っている——ということを、あのときの手のひらが教えてくれていた、と今なら言えることに気づく。
粉が一つの塊になる瞬間、手に「あ、変わった」という感触が走る。
それは説明できない。でも確かに存在する。
言葉より感知を信頼する、という姿勢の原型は、たぶんあの台所にあった。
20年かけて、もかはその感覚をフィールドワークにも食品開発の現場にも持ち込んできた。
素材の硬さ、湿度の変化、発酵の匂いが鼻をかすめる瞬間——全部、言語化より先に身体が反応する。
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んまんま! 経験が地図になるとき
食品開発の打ち合わせで、試作品を口に含んだ瞬間に「ここじゃない」とわかるときがある。
うまく説明できなくても、身体はもう答えを出している。
これは経験の地図、だとおもっている。
蕎麦打ちの手触りが、発酵食品のテクスチャー評価に繋がる。
祖父の台所の嗅覚の記憶が、原料の選別をするときの直感に通じている。
共通経験として、身体の中に層になって積み重なっている。
たとえば、北海道の冬の乾燥した空気の中で粉を扱うとき。
粉は夏とは違う吸い方をする。
これをデータで見るより先に、指先が「今日は少し水を足す」と判断する。
その判断の根拠は言語化できないまま、でも正確であることに到達する——という経験を、もかは何度も積んできた。
身体知と呼ぶには大げさかもしれない。
でも、手が覚えた地図は、頭で描いた地図よりずっと細かく、ずっと正直、ということへの共通認識に到達している気がする。
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きゃー! 言葉にならないまま、次へ渡せるか
手仕事の経験は、残念ながら完全には言葉にならない。
それがずっと、もかの中で引っかかっていた問いだった。
でも最近、少しだけ見え方が変わった。
言葉にならなくても、「一緒に手を動かす時間」として渡せる、ということへの気づきで収束しつつある。
試作の現場で後輩と並んで生地をこねるとき、もかは説明するより先に手を動かす。
相手の手が「あ、変わった」という感触に出会う瞬間を、隣で待つ。
その瞬間に立ち会えたとき、言葉よりずっと深いところで何かが伝わった、という確信がある。
20年分の地図は、もかの身体の中にある。
それを全部言語化することへは、きっと到達しない。
でも、身体から身体へ、場と時間を共にすることで、地図の欠片は渡せる——ということに気づく。
あうー。それで、十分かもしれない。
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