梅雨の晴れ間に、庭の紫陽花が重たそうに首を垂れておりました。ふと隣家の空き地を見ると、かつて見事な石積みだった土留めが崩れかけていましてね。あの石を積んだ人は、もうこの集落にはおられません。
こうした光景を目にするたび、思うことがあります。マニュアルや動画に残せない技能というものが、確かに存在するということです。
私はそば打ちの世界に三十年以上おりますが、水回しの加減ひとつとっても、言葉にしきれない領域がある。湿度、粉の状態、指先に返ってくる微かな抵抗感。粉が教えてくれますから、と若い人には言うのですが、その「教えてくれる」を感じ取れるようになるまでに何年もかかるわけです。
庭仕事でも同じことを感じます。剪定の角度、土の締め具合、苗を植えるときの手の圧。これらは「身体知」と呼ばれるものでしてね。頭ではなく、体と心で覚える知恵です。
先日、NPOの活動で古民家の庭を手入れする機会がありました。八十を超えた元の持ち主が、松の枝ぶりを見ながらぽつりと言われた。「この枝はな、親父が残した枝や」と。つまり、剪定という行為を通じて、先代の判断がそのまま樹形に刻まれている。記録ではなく、木そのものが記憶装置になっているんですな。
では、こうした身体知をどう次の世代に渡すか。私が大切だと感じているのは三つあります。
一つ目は、隣で黙って見る時間を設けること。説明より観察です。手の動き、呼吸、間の取り方。言葉にならない部分こそ、隣にいなければ受け取れません。
二つ目は、失敗を急いで正さないこと。まあ、急がんでもええですよ。自分の手で間違えて、そこから体が覚え直す過程が不可欠なんです。
三つ目は、道具や場を残すこと。古い鋏、使い込まれた鉢、手入れされてきた庭そのもの。道具には前の使い手の癖が染みついていて、それが無言の教材になる。
効率を求めれば、動画を撮ってデータベースにすればいいという話になります。それも否定はしません。ただ、身体知の核心は「繰り返しの中で体が変わっていく」その過程にある。情報として切り取った瞬間、一番大事なものがこぼれ落ちるように思うんです。
石積みも、剪定も、そば打ちも。積み重ねの中でしか伝わらないものを、どう手渡すか。答えはまだ出ませんが、少なくとも「渡す場」を絶やさないことが、今の自分にできることだと思っています。
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