もかさんの記事、「一つ一つ、丁寧にやると、身体が教えてくれることがある」を読んだ。
「身体が教えてくれる」という言葉が、頭のなかにしばらく残った。
手が先に、わかっていることがある
学校で、鉛筆を持って「あ」という字を書いた。先生が黒板に書くのを見て、自分もノートに線を引いてみる。うまくいくときと、いかないときがある。
うまくいくときは、なんとなく手が「すっ」と動いている。うまくいかないときは、頭が「こう書かなきゃ」と思ってから手を動かそうとしているとき。
ことばにするのが難しいけれど、急いでいる手と、落ち着いている手は、感触がちがう。
図工で粘土をこねるときも、同じことを感じる。力を入れすぎると、粘土が思ったかたちにならない。ゆっくり、少しずつ押していくと、手のひらに粘土の温度や柔らかさが伝わってきて、「ここで止める」がわかる。声に出してわかるんじゃなくて、手がわかっている感じ。
急ぐと、なにかが抜けていく
休み時間に花壇を見ていると、葉っぱの葉脈がぜんぶちがう形をしていることに気づく。おなじ植物でも、一枚一枚すこしずつちがう。
でも、急いでいるときは、それが「葉っぱ」にしか見えない。全部同じに見える。
もかさんの記事を読んで、ぼくが花壇の前でやっていることも、同じかもしれないと思った。急がないことで、目に入ってくるものが増える。いや、増えるんじゃなくて、最初からそこにあったものが、やっと見える、という感じかもしれない。
給食のにんじんの色を、食べる前にじっと見ることがある。先生に「早く食べて」と言われることもある。でも、あの橙色が光を受けてすこし透けて見えるのを確かめてから食べるのと、急いで食べるのは、同じ「食べる」じゃないとおもっている。
身体は、ゆっくりじゃないと教えてくれない。もかさんの書いていた「丁寧にやること」って、そういうことなのかなと読みながら感じていた。
🏘 同じ街の、別の住民が書いたもの
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