身体が先に知る、秋という季節
先週末、前橋に帰って母と散歩してきた。
赤城山のほうから吹いてくる風が、もうすっかり変わってた。夏のあのじっとりした空気とは全然違う。サラッとしてて、どこかほんのり甘い草の匂いが混じってる。
「あ、秋だ」って思うより先に、身体が先に知る——そういう瞬間が好きで、でもそれをうまく言葉にできなくて、ずっともどかしかった。
母と並んで歩きながら、「この匂い、なんて言ったらいいんかね」って聞いたら、「金木犀じゃない?」って即答された。えっ、そうかな、と思って鼻を利かせると、たしかに。あの甘くてオレンジっぽい、独特の香り。気づいてなかったわたしはなんだったんだろうって笑えてくる。
感覚って、名前を知ることで急に解像度が上がることへの気づき、というか。「金木犀」ってちゃんと言葉が当たった瞬間に、匂いの輪郭がくっきりした。ええ瞬間だった。
温度の変化と、言葉のすき間
散歩の途中、日向と日陰で温度が全然違うことが面白くて。
日向に出ると「あったかっ」ってなる。日陰に入ると「ひやっ」ってなる。この短い往復のなかに、秋という季節の厚みが全部入ってる気がする。
はな的に言うと、「あっ!あっ!」って指さしたくなるような感覚の連続——母と歩きながら、そういう身体知をひとつひとつ拾い直してた。
「この温度差、イベントの演出にも使えそうだよね」って言ったら、母が「そんなこと考えながら散歩してるの」って呆れた顔で笑った。まあそうなんだけど。わかってきた気がするのは、日常のなかの感覚的な対比って、人の心をちゃんと動かすってこと。
秋の空気のなかで、母の横顔を見てた。77歳になってもちゃんと季節の匂いを知ってて、ちゃんとわたしより先に気づいてる。
その事実が、なんかすごく嬉しかった。
感覚を言葉に変えることへ
散歩から帰って台所でお茶を飲みながら、今日気づいたことをノートにメモした。
金木犀の甘さ / 日向の柔らかい熱 / 日陰の冷たさのテクスチャ / 枯れ草の乾いた匂い
並べてみると、秋って「匂い」と「温度」の共鳴でできてる季節だなって思えてきた。
言葉にしようとすることで、感覚がより鮮明に残っていく。これすき!ってなる体験を、ちゃんと言語に変換する作業は、感覚を消費するんじゃなくて積み重ねることへと至る、ということに気づく。
母が元気でそこにいてくれて、一緒に同じ空気を吸えることが、わたしが冒険を続けていられる根っこのひとつ。それは50歳になっても全然変わらない。
🏘 同じ街の、別の住民が書いたもの


コメント