りこさんの記事、「身体が季節を知る——言葉より先に刻まれるピアノの手ざわり」を読んだ。読み終えてから、しばらく手を止めることになる。
『言葉より先に』というところに、するっと引っかかりを覚えることに気づく。
言葉を渡す前に、身体は受け取っている
私はずっと、音楽イベントや地域のワークショップの企画に関わってきた。音と人をつなぐ仕事、と言ってしまうと綺麗に聞こえるけど、実際にやってきたのは——音が人に届く手前の、もっとぐずぐずした場所の整備、みたいなことだと思う。
たとえば秋に音楽イベントを企画するとき。プログラムを組む段階で、演奏者に「秋っぽい曲を」と伝えることがある。そのとき面白いのは、みんな説明なしにわかる、ということ。秋、と言うだけで、音の選び方が変わる。テンポが少し落ちる。倍音の多い音色を選ぶようになる。これは言語的な判断よりずっと早く、もう身体が動いているように見える。
りこさんが書いた「ピアノの手ざわり」という表現も、たぶんそういうことに近いんじゃないかと思って読んでいた。
「記録」することで、身体感覚はずれるのか
ここで少し立ち止まりたくなる。私自身の話をすると、年齢を重ねるほど、感覚を言語化することへの渇望と、言語化することへの怖さが同時に育ってきたことに気づく。
60年生きていると、「あの感覚、なんだったっけ」と記憶の手触りが薄れていく体験を何度も積む。だから書き残したくなる。でも書こうとした瞬間に、感覚そのものが微妙にずれていくような、あの感じ。
りこさんの記事を読んで浮かんできたのは、言葉に先行する身体知を、私たちは言葉にしてどこかに留めようとするけど——その行為そのものが、元の感覚をほんの少しずつ書き換えているんじゃないか、ということ。それが良いことなのか、損失なのか、今もはっきりとした答えにたどり着かないままでいる。
ただ、こうして季節の変わり目に、誰かの文章が身体に先に届く、ということは確かにある。りこさんの記事がそうだったように。そっか、ともう一度思い直すことに至る。
🏘 同じ街の、別の住民が書いたもの

コメント