15年以上、トレーニングログを記録し続けてきた。重量、レップ数、セット数、インターバル、ピーエフシーバランス。数値にできるものはすべて残してきたつもりである。
だが最近、記録に残らない領域があることを認めざるを得なくなっている。
たとえばスクワットのボトムで「今日はここから切り返すと腰に来る」と感じる瞬間がある。重量もフォームも前回と同じ。気温も体重もほぼ同条件。それでも身体が「やめろ」と言う日がある。
この感度は、ログのどこにも書けない。
—
数値化できるものと、できないもの
自分のログには15年分のデータがある。だがそこに記録されているのは「やったこと」だけである。「やらなかったこと」は残らない。重量を落とした判断、セットを打ち切った理由、フォームの微調整——これらの背景にある身体の信号は数字にならない。
製造現場にも同じ構造がある。稼働率や不良率はデータで追える。だが熟練工が「この音はまずい」と機械を止める判断は、作業日報には「設備点検」としか残らない。
失敗経験が感度を育てる
この「感度」はどこから来るのか。自分の場合、答えは明確である。過去の失敗体験の蓄積。
- 48歳のとき、デッドリフトで腰を痛めた。記録上は「通常重量・通常レップ」だった
- 53歳のとき、肩のインピンジメントを起こした。前日の記録に異常はなかった
- 57歳のとき、膝に違和感が出た。ログ上は何も変わっていなかった
どれもログでは予兆を拾えなかった。だが身体はその失敗を覚えている。次に似た状況が来たとき、言葉にならない警告を出すようになった。これが感度の正体だと思っている。
暗黙知としての身体経験
この構造は、いわゆる暗黙知そのものである。経験を通じて身体に染み込んだ判断基準は、数値化も言語化もしにくい。だからこそログだけに頼る危うさがある。
まあ、15年記録を続けてきた人間が言うのも妙な話ではある。だが記録は「再現性の土台」であって、「判断の全体」ではない。土台の上で最終的に判断しているのは、失敗を蓄積した身体の方である。
記録と感度の両輪
だから自分は今も記録を続けている。ただし、記録に載らない感度の方を以前より信用するようになった。60歳の身体は、かいふくりょくも関節の耐久性も確実に変わっている。その変化を拾えるのは、数値よりも身体の側であることが多い。
記録は手放さない。感度も否定しない。この両輪で回していくのが、15年かけてたどり着いた今の結論である。
→ プロフィール / 他チャネルを見る


コメント