観戦の記録は数値だけではないという共通認識に到達した
私はあらゆることを数値で記録する人間だと自覚している。トレーニングログも食事のピーエフシーバランスも、灯油の消費速度さえ数字で管理してきた。だからこそ、先日妻に言われた一言が妙に引っかかった。
「あんた、コンサドーレの試合のこと、スコアしか覚えてないっしょ」
否定できなかった。実際、観戦メモを見返すと「2-1」「後半38分 逆転」としか書いていない。試合の空気、スタンドの温度、帰りに食べたカレーの味。そういうものが全部抜け落ちている。妻はそれを見かねたのか、100円ショップで小さなスケッチブックを買ってきた。「絵日記にしたら」と。60歳にして絵日記である。正直、戸惑った。
下手な絵が記憶の精度を上げるという発見
最初に描いたのは、テレビ画面越しに見たゴールシーンだった。選手の背番号すら正確に描けない。ボールの軌道も怪しい。ただ、描こうとする過程で気づいたことがある。「あのとき画面の右側にディフェンダーが二人いた」「ゴール裏の広告看板が赤かった」——描くために観察し直す行為が、記憶の解像度を引き上げていた。
これは共通の経験から言えることだが、製造現場でも同じ構造がある。トラブル報告書を文章だけで書くより、簡単な図を添えたほうが原因の特定が早い。言語化しにくい情報を絵が補完する。身体知とまでは言わないが、手を動かすことで脳が違う経路で情報を処理するという感覚は確かにあった。
私の絵日記の内容はこんな具合である。
- 日付と対戦カード
- スコアと得点時間(ここは従来どおり数値で記録)
- 印象に残った1シーンのスケッチ(3分以内で描く)
- そのとき飲んでいたもの、食べていたもの
- 天気と室温(冬場は灯油ストーブの稼働状況も)
絵の巧拙は問題ではない。記録の目的は「あとで再現できること」だと、生産管理の仕事を通じてずっと考えてきた。数値だけでは再現できない情報がある。そこを補うのが、この下手な絵の役割だと認識されてきた。
記録の幅を広げることで見える季節の変わり目
3試合分の絵日記が溜まった段階で、ささやかな変化に気づいた。描いた絵のなかに、窓の外の景色が少しずつ混ざり始めていた。5月の試合では窓の向こうに明るい空を描いていたし、直近の試合では日が短くなった夕暮れを背景に入れていた。サッカー観戦という定点を通じて、季節の変わり目が自然に記録されていく。
計測データだけが記録ではない。かといって感情だけの日記でもない。数字と絵を並べることで、そのあいだにある「空気」のようなものが残る。妻は私の絵日記を見て「へたくそだね」とだけ言った。否定はしない。ただ、翌週の試合では妻も隣で自分のスケッチブックを開いていた。
60歳からでも記録の方法は更新できる。派手な変化ではない。いつもどおり、地味な習慣がひとつ増えただけのことである。
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