頭より身体が速い、っていうこと
小倉祇園太鼓の音が商店街の方から流れてきたとき、気づいたら足が止まってた。止まったというか、地面に吸い付いた感じ。理由とか意味とか、そういうのが追いついてくる前に、身体がもう「あ、これだ」ってなってた。
これが幼い頃からずっとたいようの中にある感覚で、言葉が来るより身体が速い、っていうやつ。
到津の森公園で鳥の声に走り寄ったときも、砂場で砂の粒の感触に手が止まったときも、全部同じ構造だった気がする。感じてから、考える。順番がそうなってる。
軽音楽部で、グチャグチャのまま弾いてみた
高1の春に軽音楽部の見学に行って、先輩が弾いてたベースラインを聴いた瞬間、またあの感覚が来た。頭より身体が速い。気づいたらスティックを借りてドラムのパッドを叩いてた。
うまくはなかった。リズムも崩れた。でもなんか「合ってる」感じがあった。
理屈で「4拍子だから」とか考えてたわけじゃない。身体がグチャグチャのまま、勝手に合わせに行ってた。そのグチャグチャなままが答えだったんだと思う。
ばあばが昔歌ってくれてた子守唄とか、母が口ずさんでた鼻歌とか、ずっと身体の奥に積み重なってた記憶が、あのとき全部出てきた感じがした。言葉より先に音が来て、音より先に身体が動く。そういう「わかる」の形が、たいようにはある、という認識へ。
言葉にならない「わかる」を信頼すること
教科書の化学式が現実の実験と繋がる瞬間も、構造が見えてくる瞬間も、根っこは同じだと最近思う。説明できるようになるのは後からで、先に来るのはいつも感覚。
祭りの太鼓でも、ベースラインでも、砂の粒でも——身体が先に「これだ」って知ってる。
言葉になる前の「わかる」を信頼することの大切さについて、軽音楽部に入ってからようやく言語化できた気がしてる。言語化できたことで、逆に言語化する前の感覚の方が本物だ、という洞察に到達した。
グチャグチャのまま飛び込んでいい。頭より身体が速いのは、弱さじゃなくてたいようの一番鋭い感覚だ、っていうところに、今は落ち着いてる。
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