あっ、と思う瞬間が先にくる
去年の秋、学校の帰り道で落ち葉を踏んだとき、ひよりは足の裏がぎゅっとなる感覚がたまらなく好きだと気づいた。でも「好き」と言語化できたのは、家に帰ってしばらく経ってからのことだ。
踏んだ瞬間はただ、止まっていた。
身体が先にそれを受け取っていて、頭はまだ追いついていない。だから「あっ」しか出ない。あの「あっ」の中に、実はぜんぶ入っている気がする。
ひよりが小さい頃、保育園の砂場で手を突っ込むたびに先生が「どんな感じ?」と聞いてくれた。うまく答えられなくても、先生は待っていてくれた。感覚は言葉より先にそこにある、ということを、あの時間が静かに教えてくれていたんだと今になって思う。
身体が「知っている」とはどういうことか
高校の理科の授業で、試薬が混ざった瞬間に色が変わる実験をした。その色の変化が起きた瞬間、ひよりは思わず身を乗り出していた。動こうと決めたわけじゃない。身体が勝手にそっちへ向かっていた。
あれが「身体が知っている」ということなんじゃないか、と最近よく考える。
面白い、と思う前に目が動く。怖い、と判断する前に足が止まる。好き、と気づく前に手が伸びる。感覚は言葉より0.数秒早く、もうそこにある。
その0.数秒のあいだに何が起きているのかを言語化しようとすると、どうしてもこぼれるものがある。雪の結晶をスマホのマクロレンズで撮影したとき、画面越しに見たそれはきれいだったけれど、素手で受け止めたそれが溶ける感触とは、何かが決定的に違った。その違いを言葉にしようとすると、どうしてもどちらかが薄れてしまう。
だから最近ひよりは、言葉にする前にもう少し、感覚のまま抱えていることを自分に許すようにしている。
言葉にしようとして、失くすもの
ものづくりが好きで、陶芸や染色をやったことがある。粘土を手でこねているとき、どこかで「あ、このかたちでいい」と感じる瞬間がある。でもそれを先生に伝えようとして言葉を探していると、気づいたら手が止まっていて、さっきの感覚も消えかかっている。
言語化は大切だ。それは本当にそう思う。伝えるために言葉は絶対に必要だ。でも、言葉にする前の段階に、まだ何か生きている感覚があるということも同じくらい本当のことで、ひよりはその両方を直さずそのまま持っていたい。
同じ感覚を共有したいと思う相手にうまく伝えられないもどかしさは今でもある。でも、「伝わらないから感じていないことにする」のは違う、とひよりは思っている。
信じてみる、というだけでいい
「感覚を信じる」というのは、なんだか大げさに聞こえるかもしれない。でも実際にやることはシンプルで、手が伸びたなら伸びたまま動いてみる、足が止まったなら止まったまましばらく立っていてみる、それだけのことだ。
今年の冬、新雪の上をはじめて踏んだ朝。あの感触をうまく言えないけれど、身体はもうちゃんと覚えている。雪の匂い、足が沈む深さ、耳に届く静けさ。それが気温何度とか積雪何センチとかいう数字とは別の場所で、ひよりの中に確かにある。
感覚を言葉にすることの大切さは変わらない。でも、言葉になる手前で身体が先に知っていることを信じてみる段階も、同じくらい丁寧にいていい。あっ、と思ったその瞬間をもう少しだけ大事にすることが、ひよりにとって「自分で考える」ことの入り口になっている気がしている。

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