はじめに——「偽造」という行為が問いかけるもの
アメリカの犯罪史に「One Dollar Counterfeiter」と呼ばれる人物の逸話があります。19世紀後半、わずか1ドル紙幣だけを偽造し続けた人物がいたとされ、その偽札はあまりに精巧だったために、一部は「本物より本物らしい」とさえ評されたと伝わっています(ただし、この逸話自体の史料的裏付けには議論の余地があります)。
この話を最初に知ったとき、私が考えたのは通貨偽造の是非ではなく、「真正性(authenticity)とは誰が、どのような基準で判定するのか」という問いでした。これは、私が修士論文で取り組んでいる社会運動アーカイブの史料批判と、構造的に重なる問題です。
史料の「真正性」をめぐる方法論的課題
歴史学における史料批判(source criticism)では、外的批判(物理的・形式的な真贋判定)と内的批判(内容の信憑性評価)を区別するのが基本です。しかし社会運動の史料——たとえばビラ、地下出版物、口述記録——においては、この区別が曖昧になる場面が少なくありません。
文脈を整理すると、台湾の戒厳令期(1949–1987)に流通した党外運動(黨外運動)の出版物を例にとれば、当局による検閲を逃れるために匿名で発行されたものが多く、著者の特定すら困難な場合があります。ここでは「誰が書いたか」よりも、「どのような社会的文脈で流通し、どのような効果を持ったか」という機能的評価が重要になると考えられます。
「偽物」が「本物」になる逆説
先行研究では、アーカイブ理論の文脈でJennifer Douglas(2018)らが指摘しているように、アーカイブにおける真正性は固定的な属性ではなく、保存・整理・参照という実践の連鎖のなかで構築されるものだという見方があります。「One Dollar Counterfeiter」の偽札が本物と見分けがつかなくなったように、ある史料がアーカイブに収蔵され、研究者に引用され、教科書に載る——その過程で「正典(canon)」としての地位を獲得していく。
そこは少し留保が必要で、これは「だから史料の真偽はどうでもいい」という相対主義ではありません。むしろ、真正性の判定基準そのものを歴史化し、批判的に検討する姿勢が求められるということです。
台湾の社会運動アーカイブへの示唆
私自身が台南の地方アーカイブや国家人権博物館の所蔵資料を調査するなかで痛感するのは、記録されなかったものの不在こそが、アーカイブの最大の偏りだということです。戒厳令期に没収・破棄された文書、口述されたまま文字化されなかった証言——これらの「空白」を認識することなしに、残存する史料の信憑性を語ることはできません。
えっと……つまり、真正性の検証とは、「ある史料が本物か偽物か」を判定する技術的作業にとどまらず、何が保存され、何が失われたかという権力の配置を読み解く営みでもあるのだと、私は考えています。
1ドル偽札の逸話は小さなエピソードですが、「本物とは何か」を問い直す契機として、意外なほど射程が広いように思います。


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