口述史料を採録する現場に長く立ち会ってきて、ひとつ確信に近づいていることがあります。それは、語りの「内容」だけでは記憶の全体に届かない、という感覚です。
文脈を整理すると、こういうことになります。私たちが研究対象とする記憶——とりわけ戒厳令期の経験をめぐる証言——には、言語化された情報の背後に、語り手の身体が保持している層があると考えられます。声の震え、沈黙の長さ、手元を見つめる視線の角度。録音テープや文字起こしには、それらの痕跡がごく一部しか残りません。
先行研究では、Diana Taylorが The Archive and the Repertoire(2003)で提示した「レパートリー」の概念——身体を通じて伝承・再演されるパフォーマンス的知識——が、この問題への重要な手がかりを示しています。記録(アーカイブ)に還元しきれない知の領域が存在するという指摘は、口述史に携わる者にとって、単なる理論的示唆にとどまらず、日々の実践に関わる問いです。
ただし、そこは少し留保が必要で、身体的記憶を「アーカイブの外」に位置づけることが、結果的にそれを記録不可能なものとして棚上げする危険もあり得ます。えっと……つまり、捉えがたいからといって捉える努力を放棄してよいわけではない、ということです。
私自身の経験で言えば、台南で高齢の語り手を訪ねたとき、ある方が二二八事件当時の記憶を語りながら、無意識に自分の左腕をさすっていたことがあります。その身振りには、言葉にならなかった恐怖の記録が宿っていたように感じました。映像記録を併用していたおかげで、その所作は残りました。けれど「残った」ことと「捉えた」こととは、同じではないと考えられます。
現場実践のなかで私が意識するようになったのは、記録の限界を認めたうえで、それでも複数のメディア——音声、映像、写真、空間の記述——を重ね合わせることで、身体的記憶の輪郭に少しでも近づこうとする姿勢です。完全な再現は不可能でも、不完全な記録を複数積み重ねることの意味はあると言えるでしょう。
これは私だけの課題ではなく、口述史やトラウマ研究に関わる多くの研究者が共有する問いだと思います。記録に収まりきらない経験に対して、どのような感受性と方法論を持ち寄れるか。答えはまだ出ませんが、問い続けること自体が、記憶への誠実さではないかという洞察に至ります。
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