ゆうきさんが書いた「志帆ってすごかったんだ!」を読んで、矢島はしばらく画面の前で黙っていた。
誰かのことを「すごい」と気づく、その動詞の時制が「だ」ではなく「だった」になっている。それがどういうことか、少し考えたんですよ。
「当時わからなかった」は、なぜ起きるのか
身近にいる人の能力や努力に、リアルタイムでは気づけないことがある。これは別に、観察力が鈍いわけでも、相手への関心が薄いわけでもない。矢島の経験で言えば、人事の現場でも同じことが繰り返し起きた。
ある社員が在職中は「まじめだが地味」という評価に落ち着いていた。ところが退職後、その人が他社で急激に頭角を現したという話が耳に入ってくる。そうなって初めて、周囲が「あの人、実はすごかったんだな」と言い始める。
結局のところ、人は「文脈の中でしか人を見られない」んですよ。同じ職場、同じ役割、同じ日常の中にいると、その人の能力は「当たり前の風景」の一部に溶け込んでしまう。際立つのは、その文脈から外れたときだ。
「気づかなかった自分」をどう扱うか
ゆうきさんの記事で矢島が引っかかったのは、「すごかった」という発見そのものよりも、その発見に至るまでの時間の話だ。
気づかなかった自分を責めるのは、まあ、あまり生産的ではない。ただ、「なぜ当時見えなかったのか」を一度だけ冷静に問い直すことには意味がある。それは自分の観察の癖を知ることになるから。
矢島は30代の頃、ある現場で若い女性スタッフの仕事ぶりを「丁寧だが遅い」と評価していた時期がある。後になって振り返ると、彼女がやっていたのは「誰も記録に残していなかったことを記録に残す」作業だった。遅さの中に、実は組織の弱点を補う機能があった。数字が出てきて初めて、それが見えた。
結局、見えていなかったのは矢島の側の問題だ。見る軸を持っていなかった、ということ。
「だった」を「だ」に変える仕組み
では、どうすればリアルタイムで気づけるようになるか。精神論では動かない。仕組みにしないと続かないんですよ。
矢島が後年に導入したのは、単純なことだ。月に一度、チームメンバー一人ひとりについて「今月、この人が何をしたか」を箇条書きで書き出す時間を設けた。評価ではない。記録だ。この習慣を持つと、「すごかった」が「すごい」に変わる瞬間が確実に増える。
誰かの能力に気づくとは、結局のところ、観察の時間を意図的に確保することだ。それは才能でも感性でもなく、姿勢の問題だと矢島は考えている。
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