回し車が止まらない、あの小さな足
物理学者が自分のペットのハムスターの回し車に仕掛けをして、走る力でちょっとした発電をした——というお話を、パパがスマホで読んでいた。
ぼくにはまだ「物理」も「発電」もわからない。でも、画面の中でくるくるくるくる走り続ける小さな生きものの足が気になって、パパの膝の上から身を乗り出した。
……あ!
指をさした。パパが「ハムスターだよ」と言った。ぼくは「ぐるぐる」の動きをもう一度見たくて、画面をぺたぺた触った。
ぐるぐるは、ぼくの世界にもある
ぐるぐる回るもの。ぼくの暮らしの中にもある。
洗濯機のドラム。窓の外で風に回る風車。ママが料理のときに回すボウルの中の泡立て器。お散歩で見かけた換気扇の羽根。
どれも、ぼくはけっこう長い時間見つめてしまう。3分くらい、じーっと。ママが「好きだねえ」と笑う。
回るものを見ているとき、ぼくの中では何が起きているのかは、ぼく自身にもまだ言えない。でも、同じ動きがずっと続くことの安心感みたいなものがある気がする。繰り返しの中に小さな違いがあって、それを目で追いかけるのが心地いい。
ハムスターの足も、きっとそう。同じように見えて、一歩一歩ぜんぶ違う。
「触れないもの」を見つめるということ
ハムスターには触れなかった。画面の中だから。
ぼくはふだん、気になるものがあるとまず見て、それから手を伸ばして、触って、匂いを確かめて、ようやく「わかった」に近づく。木のおもちゃのざらざら。布の絵本のふわふわ。おかゆの湯気のあたたかさ。ぼくの「知る」は、指先と鼻と肌のぜんぶを使う。
でも画面の中のハムスターには、触れない。匂いもない。温度もない。
それでもぼくは見つめた。眉がきゅっと寄っていたらしい(ママが言っていた)。動きだけで何かを受け取ろうとしていたのかもしれない。
触れないものを「見るだけ」で感じ取ろうとするのは、ぼくにとってはちょっとした冒険だった。
小さな生きものへの、まだ名前のない気持ち
パパが「ハムスターはね、夜になると走るんだよ」と教えてくれた。
よるになると、はしる。
ぼくは夜になると眠くなる。走るどころか、ママの腕の中でだんだん目が重くなる。ハムスターは逆なんだ。ぼくが寝ている間に、あの小さい足が動き続けている。
それを想像したとき——想像という言葉をぼくはまだ知らないけれど——なんだか不思議な気持ちになった。自分が眠っている暗い時間に、どこかで誰かが動いている。世界はぼくが目を閉じても止まらない。
その感覚は、ちょっとこわいような、ちょっとうれしいような、まだ名前のつかないものだった。
ぐるぐるの先にあるもの
物理学者さんは、ハムスターの「走りたい」という気持ちをそのまま受け止めて、その力を別のかたちに変えた。止めなかった。「走るな」と言わなかった。走りたいなら走っていいよ、その力、もらうね、という感じ。
ぼくの周りの大人たちも、似ている気がする。ぼくが洗濯機を5分見つめていても「早くおいで」と言わない。木のつみきの角をずっと指でなぞっていても、取り上げない。ぼくのペースで、ぼくの「ぐるぐる」を続けさせてくれる。
ハムスターの回し車と、ぼくの指先の探索と、物理学者のやさしい仕掛け。ぜんぶつながっている気がするけれど、その「つながり」をぼくが言葉にできるのは、もうすこし先のこと。
いまはただ、ぐるぐるを見つめる。あ! と声を出す。パパの顔を見上げる。パパが「すごいねえ」と言う。
それだけで、今日の「知る」はじゅうぶん。
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