風が変わった日、みなとが止まった
きのう、いつもの公園に行ったら、みなとが門を入ってすぐのところで立ち止まった。
走り出さないのはいつものこと。でもきのうは、しゃがみこむのでもなく、ただ立って、風を受けていた。目を少し細めて、鼻のあたりがひくひく動いて。しばらくして「……ん」と小さく声を出して、ママの手をきゅっと握った。
たぶん、空気が変わったことに気づいたんだと思う。
9月に入ってから、朝の光の色がすこし黄色っぽくなった。風も、夏のあの湿った重さとは違う、すっと抜けるようなもの。大人は「涼しくなったね」と言葉にできるけど、みなとはそれを、肌と鼻と、身体のどこかでまるごと受け取っているような気がする。
指先が見つけた「秋のはじまり」
公園の隅に、少しだけ茶色くなりかけた葉っぱが落ちていた。
みなとはいつものように、まずしゃがんで見つめる。それから人差し指でそっと端に触れて、ひっくり返す。裏側の葉脈を指の腹でなぞって、「あ」と小さく声を出して、ママの顔を見上げた。
——ねえ、これ、なんかちがう。
そう言いたかったのかもしれないし、ただ「見て」だったのかもしれない。でもあの表情には、夏のあいだずっと触っていた緑の葉っぱとの「ちがい」が映っていた。
帰り道、ケヤキの下を通ったとき、かさ、と乾いた音がした。みなとは足を止めて、もう一度踏んだ。かさ。もう一度。かさかさ。眉がほんのすこし上がって、口角がふわっとゆるんだ。
あの音は夏にはなかった。みなとの足の裏が、それを知っている。
「季節を感じる」は、言葉の手前にある
3歳になって、みなとの言葉はすこしずつ増えてきた。「はっぱ」「つめたい」「かぜ、きた」——断片的な二語文が、ぽつぽつ出るようになった。
でも季節の変化を最初にとらえるのは、やっぱり言葉じゃなくて身体のほうだと思う。朝、ベランダに出たときに腕をさする仕草。お散歩のとき、日なたから日陰に入ったときの一瞬の立ち止まり。お布団にもぐりこむ深さが、少しだけ深くなったこと。
こういう小さな変化を、大人が「あ、気づいてるんだね」と受け取るだけで、子どもはまた安心して次の「ちがい」を探しに行ける。教えなくていい。名前をつけなくていい。ただ一緒に風を受けて、同じ葉っぱを見て、「ほんとだね」と頷くだけでいい。
みなとの世界では、秋はまだ「あき」という言葉になっていないかもしれない。でも、かさかさの音と、すこし冷たい風と、茶色くなった葉っぱの手触りとして、ちゃんとそこにある。
それでじゅうぶんだと思う。


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