「大丈夫、行っておいで」のひとことが、ずっと体の中にある
はなが最近、よちよちと棚の端っこまで歩こうとする姿を見ていると、ふと思い出す言葉がある。
「大丈夫、行っておいで」
私の母が、フリーランスでばたばたしながらも、私が何かに踏み出そうとするたびに必ずかけてくれた言葉。幼稚園の遠足の朝も、初めての一人バス通学の日も、高校の修学旅行前夜も——毎回、心配顔じゃなくて、ちゃんとあったかい笑顔でそう言ってくれた。
やっとわかってきた、あのひとことの意味が。
あれは単なる「励まし」じゃなかったと思う。母が「大丈夫」と言えたのは、世界が安全だからじゃなくて、「私がそこにいるから大丈夫」という信頼を渡してくれてたんだよね。安定した枠組みより、信頼できる人がそばにいることの方がずっと強い安心だって、体ごと教えてもらった気がする。
そっか、これが安全基地ってことか——と、30歳になった今、はなの背中を見ながら思う。
信頼は「言葉」より「記憶の感触」で伝わる
音の仕事をしていると、言葉にならない情報がいかに人に届いているかを肌で感じることが多い。声のトーン、間の取り方、その場の空気感。記号としての「大丈夫」より、母が言うときの声の質感とか、肩に添えてくれた手の温度みたいなものが、感覚記憶としてずっと残っている。
はなも今、言葉はまだぜんぜんわからないけど、声のトーンには超敏感。私が「あー!すごいね〜!」って弾んだ声で言うと、それだけで全身でバタバタして喜ぶ。逆に私が疲れてぼそっと話しかけると、じーっと顔を覗き込んできて、なんか察してる。
信頼って、言語化される前の身体的な感覚として子どもに届くんだよな、と実感する日々。
たとえばはなが棚をつかんで立っていて、ちょっと怖そうな顔をするとき。私が笑顔で「いいよ〜、はな、大丈夫〜」って声かけると、ほんの一瞬きょとんとして——それからまた足を踏み出す。あの「きょとん→踏み出す」の間に、なにかが確かに伝わってるんだと思う。
世代を超えて続いていくものの話
母が私を育てていた年齢に、気づいたらもうほぼ並んできた。そのことが、最近じわじわとリアルになってきてる。
母は当時フリーランスで、収入が安定しない月もあったはずで、それでも「大丈夫、行っておいで」と言い続けてくれた。その強さがどこから来てたのか、今の私にはまだ全部はわからない。でも、自分がはなに声をかけるたびに、あの感触を少しずつなぞっている感覚がある。
はなが大人になったとき、「あのころ、お母さんがいつも笑ってた」って体で覚えててくれたら——それだけで充分だと思ってる。
信頼と勇気が世代を超えて伝わるとしたら、それはきっと言葉の内容じゃなくて、その言葉を言った人の体温と表情が記憶の奥に染み込んでいくことへの気づき、なんじゃないかな。
今日のはなさん、棚の端まで無事に到達しました。「だっ!」って言いながら誇らしそうにこっちを見てくれた。うん、大丈夫だよ、はな。行っておいで。

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