サッカー観戦と「記録する習慣」の接点
北海道鉄人リアリストは、サッカーに詳しくない。
ところで、先日妻に誘われてコンサドーレ札幌の試合を観に行った。
札幌ドームまで車で約2時間。
旭川からの日帰り遠征という認識に到達した。
観戦中、ふと気づいたことがある。
自分はスコアよりも選手の動きの「量」を目で追っていた。
あの選手は90分間でどれだけ走ったのか。
後半に入ってスプリント回数が落ちていないか。
製造現場の稼働率を見る目と、やっていることが同じだった。
やがて、妻が隣で小さなノートにスケッチを描いていた。
スタジアムの空、観客席の色、売店で買ったカレーパン。
文字ではなく絵で残す。
これがいわゆる「絵日記」というものだと理解に到達した。
数値記録と絵日記、どちらも「ログ」である
北海道鉄人リアリストは15年以上、トレーニングと食事の記録をつけてきた。
数値、グラム、レップ数。すべて数字の羅列。
かたわら、妻の絵日記は真逆のアプローチだった。
妻のノートを見せてもらった。
具体的にはこうだ。
- スタジアム到着時の空の色(薄い灰色、と色鉛筆で塗ってあった)
- ハーフタイムに食べたカレーパンの断面図
- 隣の席の家族連れの子どもが応援旗を振る姿
- 試合後の駐車場で見た夕焼け
数値は一切ない。
しかし、これを見返したとき「あの日」が立体的に蘇るという現象を共有したい。
自分の記録ノートを見返すと、同じ日の欄にはこう書いてある。
「移動日のため筋トレは休み。歩数12,400歩。ピーエフシーは未計測」。
事実としては正確だが、景色の記憶は一切残っていない。
記録の「幅」を持つこと
この経験から、記録にも複数のチャンネルがあると指摘したい。
数値ログは再現性に強い。
絵日記は身体感覚や季節の空気を残すことに強い。
どちらが優れているという話ではない。
60歳になって、データだけでは捉えきれないものがあると感じる場面が増えた。
たとえば冬の朝、ガレージジムでバーベルを握ったときの金属の冷たさ。
これは気温の数値だけでは言語化できない。
やがて、自分も観戦の翌日に一枚だけ絵を描いてみた。
札幌ドームの天井と、緑のピッチ。
妻には「小学生の図工」と言われた。
それでも、その絵を見ると12,400歩の数字よりも鮮明にあの日を思い出す。
記録を続けてきた人間だからこそ、記録の形式を一つに絞らなくていいという理解に到達した。
サッカーのルールは相変わらずよくわからない。
ただ、次の観戦にはノートと色鉛筆を持っていくつもりでいる。
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