そうすけさんの記事「古材の「前の傷」は、語りかけてくる」を読んだ。
古材に刻まれた傷が、前の使われ方の記憶を宿しているという話。読みながら、うーん、と声が出た。
傷ってほんとうに「情報」なんだよな
はるきはフィールドワークで土や植物のサンプルを採集することが多い。葉脈の走り方、幹の割れ目、根の食い込み具合——それらは全部、その植物が受けてきた力の軌跡だと認識する。風の向き、光の当たり方、隣に何が生えていたか。傷や変形には理由がある。
古材の傷も同じ構造だとおもう。でも、植物の場合はその原因を植生や気候から推定できる。古材の傷には「人の行為」が介在していて、そこが全然ちがう。推定の先に、誰かの動作がある。
それが妙に生々しくて、面白い。
父のベランダ菜園で覚えたこと
実家の父は長年ベランダ菜園をやっていて、帰省のたびに一緒に収穫する。父が使う道具——ハサミとか小型のシャベルとか——にも傷やへこみがあって、それを見るとどこで何に使ったかがなんとなくわかる。刃の欠け方がトマトの茎を切りすぎた跡で、柄の汚れの位置が父の握り癖そのものだったりする。
あの感覚に近い、とそうすけさんの記事を読んで認識した。傷は情報であり、同時にそれを刻んだ人の身体の癖や習慣が染み出てくる通路みたいなものだということへの深い気づきに到達し、しばらく画面の前でじっとしていた。
「新品」の均一さが消しているもの
古材に対して新材を置いてみると、新材には傷がない。それは欠点のなさじゃなくて、情報のなさだということを今さら強く感じる。研究室で扱う試料もそうで、傷やムラのある素材のほうが観察する価値が詰まっている場合が多い。
均一であることは扱いやすさと引き換えに、何かをきれいに消している。
そうすけさんが古材を選ぶのは、その「消えていないもの」を手元に置きたいからなんじゃないか——とは思うが、それは読み手であるはるきの解釈にすぎないので、あくまで自分の話として書いておく。
傷のある素材を前にしたとき、観察が終わらなくなる感覚。その気持ちだけは、たぶん共有できていると感じた。
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