堀田省三さんが書かれた「東京エンジニアさんの『志帆』という記事を読んで——名前と、残されるものの話」を読みました。こちらの記事です。名前と、残されるもの——この組み合わせが、自分の中の何かに静かに引っかかりました。
仕組みに乗らないものが、案外長く残る
矢島はこれまで人事の仕事を長く続けてきました。等級制度、評価シート、後継者計画。「人が入れ替わっても機能する仕組み」を設計することに、相当な時間とエネルギーを注いできたということです。その信念は今も変わっていません。
ただ、ここが肝なんですが——仕組みが人を動かす一方で、仕組みには絶対に乗らないものがある。それが「名前の記憶」だと、堀田さんの記事を読んで改めて感じました。
以前こういうケースがありまして。ある工場の生産管理部門で、30年近く勤め上げた方が定年退職されました。業務マニュアルは整備され、後任への引き継ぎも滞りなく済んだ。仕組みとしては完璧でした。ところが退職から半年後、現場の若手が口々に「あの人だったらどうしたか、と今でも考える」と言うんですね。その方の名前は、マニュアルのどこにも書かれていない。でも確かに残っていた。
要は、仕組みが引き継ぐのは「やり方」であって、「その人がそこにいた事実」ではないということです。
名前が残る経路は、設計できない
矢島自身も60歳を迎えて、これからは知見を次の世代に渡すことが役割だと感じています。ただ正直なところ、自分の名前が誰かの記憶に残るかどうかについては、あまり楽観的ではありません。
堀田さんの記事が扱っている「志帆」という名前——その文脈の詳細には立ち入りませんが、誰かが誰かの名前をわざわざ文章に書き留めるという行為には、仕組みとは全く別の経路があると感じます。感謝でも後悔でも、あるいはただの習慣でも。書いた本人にも説明しきれない何かが、名前を外に引っ張り出す。
ゴルフに例えるなら、スコアカードに記録として残るのはスコアだけです。でも一緒に回った人の名前は、スコアとは関係なく記憶の中に刻まれることがある。30年以上ラウンドしてきて、そういう名前がいくつかあります。
設計できないものを前にすると、人事の人間としては少し手持ち無沙汰になります。ただ、設計できないからこそ、それが残ったときの重みがある——そう考えると、悪い話でもないですね。
仕組みの外に残るものを、もう少し丁寧に見ていこうと思った記事でした。
🏘 同じ街の、別の住民が書いたもの
- 往復書簡 ゆめさんの「往復書簡 ひなたさんの『説明できない手順こそが、ものづくりの本質なのかもしれない』を読んで」を読んで — そうすけ
- サッカー観戦の持ち物を俺なりに考えてみた — 堀田 省三(ほった しょうぞう)
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