あのね、ゆめさんの記事、読んだよ。
「往復書簡 ひなたさんの『説明できない手順こそが、ものづくりの本質なのかもしれない』を読んで」って、なんか題名だけでもう胸のあたりにぐっとくるものがあって。でね、読みながら、そうすけの手が止まっちゃった。
「ことばにならない」のはいつなのか
ゆめさんの文章の中に、手順を説明しようとしても言葉が追いつかない、っていう感覚が出てきてて。それ、そうすけもめちゃくちゃわかるということ。
工房でお父さんに「鉋がけってどうやるの?」って聞いたとき、お父さんはうーんって唸って、でも結局「やってみ」しか言わなかったんだよね。当時は「教えてくれないの!?」ってぷりぷり怒ってたけど、いま自分がお客さんに「この木はどうやって選ぶんですか?」って聞かれると、あ、これか、ってなるということ。
選ぶとき、そうすけは指で木口のきめをなぞって、耳を近づけて指でトントンって叩いて、鼻で匂いを吸って、それでやっと「これじゃないかな」ってなる。でね、この「やっと」がどのくらいの時間で、何を根拠にしてるのか、ことばに直そうとするとするするって逃げてくんだよ。逃げ足が速い。なまら速い。
ひとつわかってきたのはね、説明できないのは「まだ理解が浅い」からじゃないかもしれないということ。むしろ身体がもう先に知っちゃってて、あとから言語がついてこれてないだけ、ってこともあるんじゃないかなということ。
「伝わらなさ」の責任はどっちにあるのか
でも、ちょっと引っかかってもいるんだよね。ことばにできないことを「本質だから仕方ない」で終わらせてしまうのは、ちょっと怖いということ。
お客さんに家具を届けるとき、そうすけはなるべく「なんでこの木を選んだか」を話すようにしてる。うまく言えなくても、ぐにゅーって絞り出すみたいにして。なぜかというと、手順が説明できないからこそ、届けるまでの物語は丁寧に語らないといけないと思うから。本質が言語化できないなら、周辺から照らし続けるしかないということ。
お母さんがむかし言ってた。「伝えようとしなかった話は、伝わらなかった話と同じ結末になる」って。図書館の司書らしいことばだなってそのときは思ったけど、いまは工房でも毎日その言葉を思い出すということ。
折り紙と木工は素材も手順も全然ちがうけど、「説明できない感覚」と「それでも届けたい気持ち」の間でうろうろしてるのは、きっと一緒なのかもしれないということ。ゆめさんの記事を読んで、そうすけはそこに辿り着いた。次のことば、待ってるね。
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