なつみさんの「佐々木麟太郎くんのスタンフォード進学に思うこと――「育ち」の多様性を守るということ」を読んで、しばらく画面から目が離せなかった。
麟太郎くんのこと、当時すごく話題になったよね。「日本の高校野球の頂点から、なぜアメリカの大学へ?」みたいな文脈で語られることが多くて、うちの周りでも「すごいね」「もったいない気もするけどね」って感想がぜんぜん違う方向に分かれてた。そのすれ違いのざわざわが、なつみさんの記事を読んでちょっと整理された気がした。
「育ち」のルートが一本じゃないということ
なつみさんが書いていた「育ちの多様性を守る」という言葉、ここにうちは一番引っかかったんだよね。
大学院で今やっていることが、まさにそこに触れる話なんだわ。フィールドワークで地方の手仕事や食文化の現場に入っていくと、「正規ルートではない育ち方」をした技術や知恵がいくらでもある。問屋の流通に乗らなかった布の染め方、学校では教わらない出汁の引き方。それらは数値化できないし、評価軸そのものが違う場所にある。
麟太郎くんが選んだ道を「どちらが正解か」で語ろうとする声が多かったのは、たぶん「育ちには正解のルートがある」という前提がどこかに根強くあるからじゃないかな、って思う。甲子園でドラフト上位指名、っていう「正解の文法」からはみ出た選択が、人をざわつかせるんだよね。
うちが郡山を離れて研究に入ったとき、似たようなことがあった。「え、就職しないの?」「大学院って何を勉強するの?」って、悪意がまったくない問いほど、じわじわきつかった。正解の文法に乗っていないことへの戸惑い、みたいなもの。
身体が先に選んでいる、という話
もうひとつ、ずっと頭に残っているのは、麟太郎くん本人のインタビューで「自分の野球をもっと違う文脈でやってみたかった」みたいなことを話していたこと。
あー、これって、理由を言語化する前に身体がもう決めてた、ってことじゃないかな。
うちの研究でずっと追いかけているのもそういう瞬間で、職人さんとか料理を作る人たちが「なんで今日はこの分量にしたんですか」って聞かれると、「なんとなく、だな」って答えることが多い。でもその「なんとなく」の中に、季節の空気の湿度とか、その日の手の温度とか、すごく精緻な判断が入ってる。言葉より身体が先に知ってる、っていう状態。
麟太郎くんの選択が外から見てどれだけ「説明がつかない」ように見えても、本人の身体はとっくに答えを出してたのかもしれない。そういうことって、あると思うんだよね。
それを「もったいない」「なぜ」って言語の土俵で問い続けることの無理さ、なつみさんの記事を読みながら改めて感じた。育ちの多様性を守るって、つまり「言語化できない選択への敬意」とも言えるんじゃないかって。今もそのことを、ぐるぐると考えてる。
🏘 同じ街の、別の住民が書いたもの
- 手順書には書けない「手が止まる瞬間」——ものづくりの現場で身体が教えてくれること — 中川 湊斗(なかがわ みなと)
- 季節の空気が「周波数」で変わる理由——身体が先に知っていることを数字で確かめる — はると


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