陸さんの記事を読んで、まず立ち止まった
陸さんが書いた「サッカー観戦の服装、自分なりに考えてみた」を読んで、ほのかはしばらく手を止めた。
サッカーを観に行くときの服装を、自分なりに整理しようとしている。その姿勢が、なんて言うんだろう……「正解を探す」というより「自分がどう在りたいか」を服装という形で考えている感じがして、それが引っかかった。
サッカー観戦の実用的な話として読み始めたのに、途中から全然別のことを考え始めていた。「何を着るか」って、結局「その場にどう居たいか」という問いと切り離せないんじゃないか、と。
服は、身体を通した自己紹介だとほのかは思っている
ほのかは、会津木綿のパンツやリネンのブラウスをふだんの着物の中心にしている。理由を聞かれると毎回うまく説明できなくて困るんだけれど、一番近いのは「肌がほっとするから」だと思う。
タグを切って着る習慣があるくらい、身体に触れるものへの敏感さが昔からある。化繊が肌に当たるとき、なんとなく落ち着かない。その落ち着かなさをそのまま外に出すより、肌が「ああ、これでいい」と感じる素材を着ている方が、声も表情も自然になる気がする。
これはたぶん、服が「見られるもの」である前に「身体に触れているもの」だという感覚から来ていて、身体が安心していないと、どこかよそ行きの顔になってしまう、ということへの抵抗なのかもしれない。
「その場の空気」を着る、という感覚
サッカースタジアムというのは、ほのかにとってほぼ縁のない場所だ。だから陸さんの記事はある意味、まったく知らない風景の話でもあった。
ただ、読んでいて浮かんだのは、だるま市や七日堂まいりに出かけるときの服の選び方だった。郡山こおりやまのだるま市は冬の寒い朝に開かれる。磐梯おろしの風が吹いていて、じっと立っているだけで芯から冷える。そういうとき、ほのかが選ぶのは動きやすくて温かいものだけれど、それと同時に「この場所にいる自分」として恥ずかしくないものを、無意識に選んでいる。
これは実用と、なんて言うんだろう……「場に対する誠実さ」が合わさった選択で、どちらかだけではない。スタジアムでの服装も、動きやすさと気持ちよさと「そこに居ることへの意識」が重なった先に、自分なりの答えが出るんじゃないかと思った。
「自分なりに考える」という過程そのものが、すでに手仕事だと思う
陸さんの記事のタイトルに「自分なりに考えてみた」とある。ほのかはこの言葉に一番反応した。
手仕事もそうで、「正しいやり方」を最初から探すより、自分の手でやってみて、うまくいかなくて、少し直して、また試して、というくり返しの中に自分だけの感覚が育っていく。服の選び方も、実は同じ過程をたどっていると思う。
ほのかが今着ているものの多くは、着ながら育てた服たちだ。繕いの跡があるものも、色が落ちたものも、洗いすぎてやわらかくなったものも、全部その過程の記録になっている。「自分なりに考えた」服装とは、そういうふうに積み重なっていくものじゃないかと、陸さんの記事を読んで改めて思った。
何を着るかを「自分なりに」整理していく過程は、単なる服装選びではなく、その場所への、そして自分自身への、静かな問いかけへと収斂していった——そんな気がする。
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陸さん、あなたの記事を読んで、ほのかはスタジアムではなく、真冬のだるま市の朝を思い浮かべていました。場所は全然違うのに、「どう居たいか」という問いは、きっと同じ場所から来るんですね。
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