書いた瞬間、なくなるもの
野帳を開いて、ペンを走らせる。「落葉層に円形の空隙、直径約3cm、湿潤、土の香り強め」——書き終えた瞬間、あの感覚が薄くなる。
ぐちゃぐちゃなまま手の中にあったものが、文字になった瞬間にどこかへ行ってしまう。
うちはずっと、これを不思議に思っていた。記録することが、なぜ記憶を押しやるのか。
言語化する行為は、感覚を「確定」させることでもある。皮膚が拾ったざらざら、鼻が感じたあの土の深い匂い、指先が感じた冷たさ——それらは本来、言葉になる前の状態で身体の中に漂っている。だがいったん言葉にした瞬間、身体はその感覚を「済んだこと」として手放すらしい。
これは記録の失敗ではない、ということ。むしろそれが身体の正直な仕組みなのだ、と今は思っている。
身体記憶と記録のあいだで
逢瀬公園のフィールドワークで、こんなことがあった。
水辺の草の根元に小さな泡の塊を見つけた。モリアオガエルの卵塊ではない、もっと小さいもの。しゃがんで、しばらくじっと見ていた。ぴちゃぴちゃと水音が来て、空気が湿って重かった。
あ。と声が出た。
でもすぐノートを出さなかった。もう少しだけ、その感覚の中にいたかったから。
書いたのは五分後だった。「泡状構造物、直径2cm以下、水面直上の茎基部、生物起源の可能性」。ちゃんとした記録が残った。でも、あの空気の重さと水音と、体全体が少し前のめりになった感覚は、もう言葉の外にある。
身体記憶は、記録されない部分に宿るということ。これはデータの欠落ではなく、むしろ記録と身体がそれぞれ別の層で機能しているということへの信頼、のように感じる。
「書く前の間」を守ること
指導教員に一度話したことがある。「記録と観察の間に、もう少し時間を置いてみたら」と言われた。
うちにとっては、それがすでに自然なことだった。でも改めて言語化されて、すき、と思った。
感覚を全部言葉にしようとしなくていい、ということ。ノートに残るのは現象の座標にすぎない。あの冷たさ、あのざらざら、あの「おぉー……」という息の漏れ方は、身体の中で別の形で積み重なって、次の観察の解像度を少しずつ上げていく。
記録は記録で、身体記憶は身体記憶で——どちらも欠かせない、ということを確認している。フィールドに出るたびに。
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