たいがさんが書いた「雨あがりの土のにおい、あれなんで?身体がぴたっと止まる理由を調べてみた」を読んだ。
雨あがりの土のにおい。「ペトリコール」という名前がついていて、放線菌がジェオスミンという物質を出すのが原因だ、というのはうちも知っていた。でも、たいがさんの記事で「身体がぴたっと止まる」という表現に出会って、そこで少し時間が止まった。
においは、言葉になる前に届く
フィールドワークに出ると、においが先に来る。視覚より、聴覚より、先に。湿った腐葉土のにおい、雨後の草のにおい、川べりの石が乾いていくにおい。身体がそれを受け取ってから、頭が「ああ、ここはこういう場所だ」と整理し始める、という順番がある。
言語化はいつも遅れてやってくる。それがたぶん、たいがさんが「止まる」と感じた正体に近いと思う。においは説明を経由しないで直接、感覚に刺さってくるということ。そのラグのなかに、身体が止まる理由がある。
うちが一番この感覚を強く覚えているのは、秋の逢瀬公園の池のまわりだ。雨あがりの翌朝、湿った土と落ち葉が混ざったような、冷たくて少し甘いにおい。子どものころから変わらず、あのにおいをかぐと身体の速度が自然と落ちる。立ち止まる、というより、落ちる、という感じ。
データより先に、鼻が知っている
フィールドで生態モニタリングをしていると、環境の変化をにおいで察知する場面がある。水質の変化、土壌の乾燥具合、植生の遷移。数値を計測する前に、においが「なにかが変わっている」とうちに教えてくることがある。
これはたぶん、データとしては扱いにくい。においの「質」を数値化するのは難しいし、個人差もある。でも、だからこそ、においで感じ取ったことをフィールドノートに書き残すことは続けている。「ぐちゃぐちゃなまま」でも、言葉として残しておくこと。それが後から意味を持つということを、何度か経験してきた。
ジェオスミンという化合物名で説明できても、それが「身体を止める理由」を全部説明しているとは思わない。においが身体より先に知っている、という感覚は、科学の言葉と並べて、ちゃんと両方持っておきたいと感じている。
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