朝五時、蔵の温度計は4.2℃を示していた。手のひらで醪(もろみ)の桶に触れる。数字と、皮膚が受け取る温度は、同じようで少し違う。その「少し」がいつも気にかかる。
小林酒造では十五年ほど前から、仕込みの全工程を数値で記録し続けている。洗米の吸水率、蒸し米の水分量、製麹(せいきく=米に麹菌を繁殖させる工程)の品温推移。三十分ごとの記録が、年度ごとにファイル何冊にもなる。
数字を残す理由は単純で、「去年の自分に訊くため」だ。
ん——ただ、記録が増えるほど不思議なことが起きる。データでは説明しにくい判断が、むしろ輪郭を持ち始めるという気づき。たとえば麹室(こうじむろ)の湿り気。温湿度計は68%と言っている。けれど手ぬぐいを絞ったときの重さ、くんくんと嗅ぐ栗のような甘い香りの立ち方——そこに「もう半日、置いたほうがいい」という判断が生まれる。
これは勘ではない、と自分は思っている。身体の記憶が、数字の行間を読んでいるだけのことに到達した感覚がある。
若い蔵人に「なぜ今日は引き込みを遅らせたんですか」と訊かれることがある。正直、言語化できない部分は残る。でも記録があれば「三年前の同じ気温帯で、ここを急いだら硬い酒になった」と指し示せる。感覚の根拠を外に置けることが生まれた。
安曇野の冬は厳しい。朝の空気は鼻の奥が痛くなるほど乾いている。その乾きが、米の水分の抜け方に影響する。天気図の数値だけでは拾いきれない、この土地の風の質みたいなもの。数字を積み重ねてきたからこそ、「数字の外側」に何があるか見えるようになったという気づきがある。
まあ、それはそれとして。測定と感覚は対立するものじゃない。片方があるから、もう片方の輪郭が浮かぶ。酒造りに限らず、何かを長く続けている人には伝わる話だろうか。
蔵の片隅で、今朝も記録帳を開く。数字を書きながら、指先はもう次の判断に向かっている。記録は過去のものだが、それを読む身体は常に今にいる。そこに制約と自由が同居していることの本質を、四十八年かけてようやく掴みかけている——ような気がするだけかもしれんがね。
→ プロフィール / 他チャネルを見る

コメント