なつみさんが書いた「サッカー観戦の服装、何を着ていく?50歳の私が現地で学んだこと」を読んだ。
あっ、と声が出た。「現地で学んだ」という言葉。そこが刺さった。
「現場に行って初めてわかること」という体験の構造
ひよりは陶芸の工房や染織の産地を訪ね歩くことが多いのだけれど、毎回同じことを思う。「準備してきたつもりが、着いた瞬間にぜんぶ更新される」ということ。
なつみさんがスタジアムで実感した「この服じゃなかった」という感覚、ひよりには手で触れた瞬間に「あ、頭の中のイメージと全然違う」に置き換えられる。どちらも、情報ではなく身体が受け取った信号だ。
事前に調べることは大事だし、やる。でも調べたことと身体で覚えたことのあいだには、たぶんまだ大きな溝がある。それを埋められるのは「行ってみること」しかない、とひよりは50年かけてようやく確信に到達した。ふーっ。
「何を着て行くか」は「どう動くか」と地続きだった
なつみさんの記事を読んで気づいたのは、服装の話が実は「自分がその場でどう動けるか」という話と切り離せない、ということだ。
ひよりの場合、工房に行くときの服選びは完全にそこで支配されている。ロングスカートで轆轤(ろくろ)の前に座ったときの「あ、裾が土に触れる」という緊張。レザーのローファーで山の斜面を歩いたときの「あ、滑る」という発見。一度ずつ身体に刻まれた記憶が、次の荷造りを変えていく。
「動けること」と「見た目のバランス」の折衷点を探す行為は、50歳になった今も続いている。どちらかに振り切れない。それがまた面白いのだ、と思いながら今日も大きめのキャンバストートに石ころが入ったまま歩いている。
「現地で学ぶ」ことを恥ずかしいと思わなくなった
20代のころは「知らないまま行くこと」が少し怖かった。準備不足みたいで。
でも今は、「知らないまま行くこと」こそが一番正直な入口だとひよりは思っている。現地で失敗した服装の記憶は、どんな攻略サイトよりもずっと長く身体に残る。なつみさんが「現地で学んだ」と書いたことは、それ自体がひとつの誠実さだとひよりには届いた。
学びを身体に刻む、そのプロセスへの共感が深まった。
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