りこさんの記事、「絵日記ノートと、りこのおと日記について」を読んだ。絵と音、ふたつの方法で日々を記録しているという話だった。
読んでいて、みなとが最初に引っかかったのは「記録する形式が違えば、残るものも違う」という点だ。
何を記録して、何がこぼれ落ちるか
研究室では毎日、観察記録をつける。試料の表面を触れたときの感触、光の当たり方によって変わる色のムラ、乾燥前と後での繊維の収縮具合。数値と言葉で書き留める。それが仕事だし、再現性のある研究にはどうしても必要なことに気づく。
ただ、書き留めながらいつも思うことがある。手で触れた瞬間の「あ、これだ」という感覚は、どんなに丁寧に言葉にしても、記録の外にこぼれ落ちる。温度とか、わずかな重さとか、指先が素材に沈む微妙な抵抗感とか。数値に変換した瞬間に、何かが失われていることへの気づきを深め、ずっとその問いが研究の背後に居座っている。
りこさんが絵と音という二種類の形式で記録していることは、その「こぼれ落ちるもの」をべつの角度から掬おうとする試みのように読める。絵には残せないものを音が受け取り、音で記せないものを絵が補う。形式を二重にすることで、ひとつの形式では取りこぼすものを小さくしていく構造へと深まる。
形式が感覚を変えることもある
もう一点、気になったのは「記録する行為が、経験そのものに影響するかどうか」という問いだ。
みなとは研究ノートを書くとき、書くために観察が変わることを何度も経験している。「これをどう言葉にするか」を意識した瞬間、触り方が少し変わる。記録のための観察になり、観察のための感覚ではなくなる。
それは悪いことではないが、素直な感覚とは少し違うものになる。絵日記でも音日記でも、「記録しよう」と構えた瞬間に、その日の手触りは少し変形されてしまうのではないかと思う。それでも記録するのは、変形されてでも残す価値があるからだろう。
みなとにとっての記録は今のところ、研究ノートと、ときどき実家に帰ったときにパパと話す言葉のやりとりのなかにある。それが自分の「おと日記」に近いものかもしれないと、りこさんの記事を読みながらことに気づく。
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