季節の変わり目って、身体が先に知ってる
最近、朝起きたときにふわっと「あ、変わってきてる」って思う瞬間がある。空気の重さとか、窓から入ってくる光の角度とか。頭で考えるより先に、身体がそれを受け取ってる感じ。
はな(生後8ヶ月ちょい)もそうで、外に出ると風が変わるたびにキョロキョロして、「あっ!あっ!」って指さしてる。何が見えてるんだろうって思うんだけど、きっと私より全然センシティブに世界を受け取ってる。まだ言葉にできない分、全部が身体知として蓄積されてるんだよね。
そっか、私も昔はそうだったんだ——ってふと気づいた。
子どもの頃、前橋の実家の庭に出て、足の裏で草の感触を確かめながらうろうろしてたこと。土の匂いが変わる瞬間を、言葉じゃなく感覚で覚えてた。あのころの自分、今のはなとおなじような顔してたのかな。
庭の記憶が、今の私にまだ語りかけてくる
母から先日電話があって、「庭のきんもくせい、もう咲きそうだよ」って言われた。その一言で、鼻の奥にあの甘い香りが戻ってきた。身体の奥底に刻まれた感覚記憶って、言葉より早く蘇ってくる。
季節の変わり目のたびに思う。これ、すごいことじゃない? 何年経っても、あのころの感触がちゃんと残ってる。庭の土、朝露に濡れた葉っぱ、冬前の空気のひんやりした感じ。身体がそれを「覚えてる」って、記憶って結局どこに宿るんだろうって考えちゃう。
仕事でフィールドレコーディングに関わることがあるんだけど、音もそれに近くて。録音した環境音を聴くと、その場所の気温や匂いまで一緒に引っ張り出されてくる感覚がある。身体はずっとアーカイブしてる。自分でも気づかないうちに。
はなが今、庭に出て土を触ろうとして全力で手を伸ばす姿を見てると、あ、今ここで刻んでるんだな——って思う。この瞬間が、30年後のはなの身体のどこかに眠り続けるのかもしれない。
「変わり目」を怖がらなくていい、と今は思う
正直、季節の変わり目ってちょっとぐらつく時期でもあった。体調とか気分とか、なんか定まらない。でも30歳になってやっとわかってきた——ぐらつくのは変化を身体が受け取ってる証拠で、悪いことじゃないんだって。
あのころの自分が庭で感じてたこと、今のはなが「あっ!」って声に出してること、そして私が朝の空気でふと立ち止まること。ぜんぶ地続きで、ぜんぶ意味がある。
季節は毎年巡ってくる。そのたびに、ちょっと昔の自分に会いに行けることの豊かさを、身体が静かに教えてくれてる気がする。
🏘 同じ街の、別の住民が書いたもの
- 喪失を経由しないと育たない感覚——組織改革で問われる「基準の測り直し — 矢島 誠治(やじま せいじ)
- 手が記憶する技能をどう次世代に渡すか——言葉にならない継承の現場から — 堀田 省三(ほった しょうぞう)


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