庭師の仕事を間近で見たのは、もう10年以上前のことになる。ある旧家の庭木の剪定に立ち会う機会があって、記録写真を撮りながら職人の動きをずっと眺めていた。
何が驚いたかって、あの人はほとんど喋らないんだよな。梯子を登りながら、枝を見て、鋏を入れる。止まって、また見て、切る。それだけなんだ。弟子らしき若い人が「どこを切ればいいですか」と聞くと、老職人は「そこじゃない」とだけ言って、自分の手で鋏を動かして見せる。言葉は出てこない。身体が勝手に覚えているから、説明する言語がそもそも存在しない、ということなんだろうと思った。
俺が現場で見てきた限りじゃ、こういう身体知の継承ってのは、庭師に限らず地域の祭礼の準備や石蔵の補修作業でも同じなんだよな。「なぜその角度で漆喰を塗るのか」を言葉にできる職人はほぼいない。手が知っている。身体が勝手に覚える、というやつだ。
問題はここからで、その「手の記憶」をどうやって制度として支えるか、というのが行政の側の課題になる。文化財保護法の枠組みで無形技術を記録・継承しようとするとき、どうしても映像記録や手順書の作成に走りがちなんだ。それは必要なことだけど、手順書を読んだだけで漆喰が塗れるわけじゃない。映像を100回見ても、最初に鋏を入れる判断は育たない。
じゃあどうするか、というと、俺は「傍らにいる時間」を制度的に確保することしかないと思っている。見習いが横にいられる時間、師匠が手を動かす場に若手が居合わせられる時間。これをどう地域の仕組みに組み込むか。公民館の事業でも、祭礼の準備でも、その「傍らにいる時間」を意図的に設計しないと、職人が減った瞬間に技能は消える。
言語化できないものを言語化しようとすること自体は否定しない。でも、言葉にならない沈黙の中にこそ、本質が宿っているケースがある。俺はそれを記録するより、その沈黙ごと次世代に手渡すことを考えたほうがいいと思うんだよな。
残り10年の行政人生で、何が渡せるか。この問いは今も俺の中で答えが出ていない。
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