失われた風景を身体で記録する――文化財保護は「見届ける」という行為から始まる

壊される前に、俺たちはちゃんと「見た」のか

先週の土曜日、市内の古い農家の庭を記録調査に訪ねてきた。築130年ほどの主屋の裏手に、石積みの囲いと刈り込まれた生垣が残る、こぢんまりした庭だ。持ち主の高齢の方が施設に移られることになり、来年度中には取り壊しの方向で話が進んでいると聞いた。

堀田 省三(ほった しょうぞう)

栃木県日光市出身、50歳の男性。20代から教育行政の世界に身を置き、市町村の教育委員会や社会教育課を中心に約25年のキャリアを積み上げてきた。現在は教育委員会…

写真は撮った。寸法も測った。でも、帰り道でふと思ったんだよな。あの石の感触、踏んだときの土の柔らかさ、風が生垣を抜けるときの音——そういうものは、図面にも写真にも残らないんだよな。

文化財保護法の世界では、有形文化財の記録保存というと、どうしても写真測量や実測図の作成が中心になる。それは必要なことだし、俺も業務として何度もやってきた。ただ、「記録した」という事実に安心してしまって、その場所が持っていた身体的な記憶——つまり人がそこに立ったときに感じる重力みたいなもの——を見落としてきたんじゃないかと、最近ずっと引っかかっているんだよな。

「見届ける」という行為は、技術じゃなく姿勢の話だ

俺が若い頃、先輩の担当者にこんなことを言われた。「現場に行くなら、まず5分は黙って立ってろ」と。当時はよくわからなかった。でも今になってみると、あれは測量器械を構える前に、その場の関係性を身体で感じろ、ということだったんだと思う。

社会教育の現場でも似たことが言えて、公民館で地域の古老から聞き取りをするとき、一番大事なのは最初の質問じゃなくて、相手が話し始めるまでの沈黙に耐えることだったりする。その沈黙の中にこそ、言語化できない記憶が浮かんでくる。

庭の話に戻ると、あの石積みは、持ち主の曽祖父の代が裏山から一つひとつ運んで積んだものだと教えてもらった。補修の跡が何箇所かあって、それぞれの石の色が微妙に違う。そういう「修繕の歴史」は、図面には現れない。見届けた人間の記憶の中にしか残らないんだ。

だから俺は、記録調査のとき若い職員にいつも言うようにしている。「データを取る前に、その場所に慣れろ。慣れてから初めて、何を記録すべきかがわかる」と。習慣として身につくまでには時間がかかるけど、これが身体知として蓄積されていくことの大切さは、25年やってきてますます確信している。

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次世代に渡せるのは、見届ける「姿勢」しかない

取り壊しが決まった庭を前に、俺にできることは限られている。文化財保護法の指定要件を満たすかどうかの判断も、予算的な支援の可能性も、正直なところ厳しい現実がある。それでも、あそこに行って、石を触って、空気を吸って帰ってきたことには意味があると思っている。

見届けた人間がいるということ、そしてその感覚を言語化しようともがいた記録が残ること——それが、次の誰かが「なぜこれを守るのか」を語る言葉の種になるんだよな。

壊す前に問い続けること、そして現場に立ち続けることが、行政の中の少数派として俺にできる最後の仕事だと、そう思っているんだよな。

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