公民館で講座の企画をしていると、「どんな人が本当にいい教え手なのか」という問いに、ちょくちょく突き当たるんだよな。
知識の量か、話のうまさか。まあ、それはそうなんだけどさ、俺が現場で見てきた限りじゃ、そのどちらでもないことが多い。
あのときのことをよく思い出す。数年前、高齢者向けの体操講座に、元理学療法士の女性を講師として呼んだんだ。彼女は最初の回、ほとんどしゃべらなかった。参加者の一人が「この動き、ちょっと膝に来るんです」とぼそっと言ったとき、彼女はすっと前に出て、その人の足首のあたりを静かに見た。「どこで、どんなふうに痛みますか」と聞いてから、自分のノートに何かをさらさらと書いた。
それだけだった。でも次の回から、講座の内容がごく自然に変わっていた。無理のない角度、立ち上がる順番、呼吸のタイミング。参加者は誰も「変えてもらった」と気づいていなかっただんべ。
俺はそれを見て、「ああ、この人は身体の声を記録している」と思ったんだよな。
人の身体は、言葉より先に季節の変わり目を感じ取ったり、疲労の蓄積を察知したりする。とくに高齢の参加者は、自分の感覚を「大したことじゃない」と流してしまうことが多い。そこで誰かがきちんと「記録する」という行為を挟むと、その感覚が初めて意味を持つんだよな。
公民館の講座は、知識を一方的に届ける場所じゃない。現場で積み重なる「痛みや違和感の暗黙知」を、一緒に掘り起こしていく場所だと俺は思っている。
だから教え手に必要なのは、まず「聞けること」と「記録を続けること」じゃないかな。身体が先に察知したことを、言葉に変えて残す。地味な作業だけど、それが長い目で見ると本物の経験になっていくんだよな。
派手な講師よりも、ノートを持ち続ける人を信頼する。俺はそう決めているよ。
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