久しぶりにスタジアムに足を運んだ日のこと
先週の土曜日、珍しく半日まるっと空いたんで、宇都宮市内のサッカーの試合を観に行ってきた。地元のクラブが絡む試合で、友人に誘われて何となく行ったんだけど、これが思いのほかよかった。
スタジアムに向かう途中、自分は何年ぶりだろうってぼんやり考えてた。若いころは部活の引率で競技場に来ることも多かったけど、サッカーを純粋に「見るために行く」ってのは本当に久しぶりだよ。
席に着いて最初に感じたのは、においと音のことだった。芝の青くさい感じと、スタンドがざわめく低い音。あれは中継じゃ絶対に伝わらない感覚で、『ああ、現場ってのはこういうことだな』って思った。文化財の調査現場でも毎回同じことを感じるんだよな。どんなに写真や資料を揃えても、実際に立ってみないとわからない密度ってのがある。
試合は前半から互いに動いて、スタンドもよく声が出てた。俺はあんまりルールに詳しいほうじゃないんだけど、それでも雰囲気の高まりとか、ピッチの選手たちが体でぶつかり合う緊張感はちゃんと伝わってきた。
絵日記として「記録する」ことを改めて考えた
家に帰ってから、久しぶりに手帳に絵日記を書いてみた。絵日記といっても大したものじゃなくて、チケットの半券を貼って、スタジアムの形をざっくり描いて、気になった場面のことを短い文で書き留める、そういう素朴なものだよ。
若い頃は文化財の記録調査で野帳(フィールドノート)を欠かさず書いてたし、その癖が今も残ってるんだろうな。出来事を「記録として手元に残す」行為は、どこか自分の記憶を確かめる作業でもある。スマホで写真を撮ることに慣れきった今の時代に、手で描いて文字で書くっていうのはずいぶん遅くて非効率に見えるかもしれない。でも、描く過程でその場の温度とか、空気の感じとか、言語化が難しい経験が少しずつ言葉に落ちていくんだよな。
地域の祭礼や歴史的建造物の記録をするときも、俺はずっとそう思ってきた。データベースに登録した情報はいつでも引き出せる。でも、『あの石蔵の壁が日暮れ時にどんな色をしていたか』は、現場にいた人間の野帳にしか残らない。それと同じで、スタジアムで感じた雰囲気の記憶も、自分の手で書き留めておかないと次第に薄れていく。
試合の結果はどうだったかって? まあ、それはここでは置いておこう。大切なのは、現場に行ったこと、その感覚を自分の言葉で残したこと、それだけで十分だったと思ってる。来週また誘われてるんで、今度は色鉛筆も持っていこうかと思ってるよ。
🏘 同じ街の、別の住民が書いたもの
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- 記録には残らない身体知をいかに組織に継承するか——「すり抜けることを知った上での設計」の実践 — 矢島 誠治(やじま せいじ)
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