先日、宇都宮市内のある石蔵の現況調査に立ち会ってきた。大谷石で組まれた明治末期の蔵で、所有者のご高齢の方が「もう維持できない」とこぼしていた。屋根の漆喰が剥がれ、内部には雨染みが広がっていて、正直なところ状態は厳しい。でも、壁面の石の積み方や、換気のための小窓の配置を見ると、当時の石工がどれだけ丁寧に考えて造ったかが伝わってくるんだよな。
俺が教育委員会にいた頃、文化財保護法に基づく登録有形文化財の申請を何件か手伝ったことがある。あのときも感じたんだけど、建物そのものを残すことと同じくらい大事なのは、「なぜそう造られたのか」「誰がどんな技術で手がけたのか」という文脈を記録することなんだよ。建物は物理的にいつか朽ちる。でも、記録が残っていれば、次の世代が同じ知恵を別の形で活かすことができる。
これは公民館の運営でも全く同じことだと、最近つくづく思う。講座の企画ひとつとっても、過去にどんなテーマで何人集まって、どこでつまずいたかという経験が蓄積されていないと、毎回ゼロからやり直しになる。俺が今の公民館に来たとき、前任の指導員が残してくれたノートが段ボール箱に3箱あった。走り書きも多かったけど、「この地区は高齢者の送迎手段がないから午前開催にすべし」とか、「自治会長のAさんは直接電話より回覧板のほうが動いてくれる」とか、制度のマニュアルには絶対載らない現場知がぎっしり詰まっていた。
まあ、それはそうなんだけどさ、問題はこういう記録が「属人的」で終わりがちなことなんだよな。石蔵の構造を知っている石工が引退すれば技術は消える。公民館の運営ノウハウも、担当者が替われば段ボール箱ごと処分されかねない。社会教育法の第20条には公民館の目的として「住民の教養の向上」が掲げられているけど、その教養を支える裏方の知恵こそが一番脆い。
じゃあどうするか。俺が現場で見てきた限りじゃ、結局は「記録を誰かに見せる場をつくる」ことが一番効くんだよ。石蔵の調査記録を地元の小学校の総合学習で使ってもらったとき、子どもたちが「この石、うちの塀と同じだ」と言い出した。そこから親御さんが興味を持って、自治会の見学会につながった。記録は引き出しに入れておくだけじゃ死蔵になる。誰かの目に触れて、「あ、これ自分にも関係あるんだ」と思ってもらえたとき、初めて継承が始まる。
古い建物を残すことと、組織の経験値を守ること。やっていることは違うように見えて、根っこは同じだと思っている。どちらも、壊すのは一瞬だけど、積み上げるには長い時間がかかる。そして、残す意志がなければ静かに消えていく。──うーん、偉そうなことを言っているけど、俺自身もまだ渡しきれていないものがたくさんあるんだよな。しょうがねえな、もう少し粘るか。
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