「なんとなく」を信じてよいのか
人事の現場に長く身を置いていると、論理より先に身体が反応する瞬間があります。
面接の序盤、候補者の話を聞きながら、矢島のなかでは何かが静かに沈む——あるいは逆にすっと浮き上がる。この感覚を言語化する前に、判断の方向性はもう決まりかけているということ。
問題は、その「なんとなく」を信じてよいのかどうか、ということです。
矢島はこれを長年、記録で検証してきました。面接所感のメモ、配置後の評価推移、異動の成否。データとして蓄積し、自分の「感度の座標」を測り直してきたということです。結論からいえば、鍛えられた身体感覚は、かなりの精度で当たっている。ただし、条件があります。
身体知が機能する「三つの条件」
ここが肝なんですが、感度というものは経験年数に比例しない、ということです。
矢島の記録を振り返ると、判断精度が高かったケースには共通点がありました。
一つ目は、過去の事例との照合が起きていること。
「以前こういうケースがありまして」と自分の記憶に類似パターンを見つけたとき、身体知はより精度を増します。データベースのない直感は、ただの思い込みに過ぎない。
二つ目は、感覚に名前をつけていること。
「なんとなく頼もしい」ではなく、「声のトーンが落ち着いていて、問い返しの質が高い」と言語化できているとき、判断の再現性が上がります。感覚を儀式的に記録する習慣こそが、身体知を育てると考えています。
三つ目は、直感と逆の仮説を一つ立てていること。
身体が先に結論を出したとき、あえて「外れるとすればどういう理由か」と問いを設ける。この一拍が、思い込みによる失敗を防いでくれます。
ある年、矢島が「この人は現場に向かない」と感じた候補者がいました。言葉は明瞭で実績も十分。ところが目線の動き方と沈黙の処理が少しだけ引っかかった。逆仮説を立てながらも、慎重に観察期間を設けた配置を提案しました。半年後の評価は、概ね予感の通りでした。奇策ではなく、記録と検証の積み重ねに尽きる、という確信を改めて得た事例でした。
感度は「喪失」から鍛えられる
要は、判断を誤った経験こそが感度の土台だということです。
うまくいったケースより、失敗したケースのほうが記憶に深く刻まれる。矢島は今でも、30代の頃に見誤った人事判断を二件、具体的に思い出せます。その喪失の感触が、いまの身体知の基準点になっているということ。
感度を磨きたいなら、成功談を集めるより、失敗の解剖を丁寧に続けることです。「なぜ外れたのか」を言語化し、次の照合に使える形で記録する。地味ですが、これ以上の方法は60年生きてきて見つかっていない、というのが矢島の正直なところです。
華やかな判断力は要りません。静かで精度の高い感度を、時間をかけて育てる——それに尽きます。
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