公民館で講座をやっていると、ふとした瞬間に出くわすことがある。講師の話が終わって、参加者同士が顔を見合わせて、ふっと笑う。言葉はない。でも、あの数秒間に何かが通い合っているんだよな。
俺が現場で見てきた限りじゃ、あの瞬間こそが一番深い学びの入口だと思っている。
テキストに載らない「身体の対話」
公民館の高齢者向け園芸講座で、去年こんなことがあった。土の配合を間違えて苗がひょろひょろになった参加者がいた。隣の席のおばあちゃんが、それを見て黙ってうなずいた。失敗したほうも、ばつが悪そうに笑った。それだけだよ。でも次の回から、二人は自然と隣に座るようになった。土の話、水やりの話、そのうち孫の話まで広がっていった。
言葉で「失敗してもいいんですよ」と講師が百回言うより、あの一瞬の笑い合いのほうがずっと効いていた。身体ごと「大丈夫だ」と伝わるからだろうな。
なぜ「顔と顔」でなければならないのか
オンライン講座が増えて、画面越しのやりとりも悪くはない。まあ、それはそうなんだけどさ。でも画面では、あの「間」が生まれにくいんだよ。タイムラグがあるし、表情の細かい動きが潰れる。うーん、技術の問題というより、同じ空気を吸っていないことの差なんだと思う。
教育委員会にいた頃、社会教育法の趣旨をよく読み返した。第二十条に「住民の教養の向上」とあるけれど、教養というのは知識の量じゃない。人と人が場を共有して、失敗も含めて記録されない時間を過ごすことで初めて身につくものだよ。
「丁寧に場を回す」ということ
派手なイベントや有名講師を呼ぶことばかりが注目される。でも俺は、参加者が顔を見合わせて笑える「余白」をどれだけ設計できるかが、公民館職員の腕だと思っている。プログラムを詰め込みすぎたら、あの瞬間は絶対に生まれない。
先日、若い職員が「堀田さん、講座の間に雑談タイムを入れていいですか」と聞いてきた。いやぁ、嬉しかったな。まずやってみな、と言った。結果は上々だったよ。参加者の表情が明らかに変わった。
学びというのは、カリキュラムの中だけにあるわけじゃない。言葉にならない瞬間を丁寧に守ること。それが現場の仕事なんだよな。地味だけど、しょうがねえな、俺はこういうのが好きなんだから。
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