クレヨンと紙切れの朝
昨日の朝のこと。ほのかがダイニングテーブルによじ登って、私の書きかけの買い物メモをじーっと見つめていた。ボールペンの走った跡を、指先でそーっとなぞって、それから顔を上げて「ママ、これ何?」って聞くの。
「お手紙だよ」って答えたら、ほのかの目がぱあっと開いて、「ほのかも!」って。
あー来たな、と思った。最近「ほのかも」がすごいんだよね。何でもやりたい、何でも触りたい、何でも自分で。
クレヨンの箱を出してあげたら、迷わず赤を取って、チラシの裏にぐるぐるぐるぐる描き始めた。途中で黄色に持ち替えて、ぐるぐるの上にまたぐるぐる。口をきゅっと結んで、真剣そのもの。息を止めてるんじゃないかってくらい集中してて、私はそのまま台所に立ちながら横目で見てた。
5分くらいかな、急に顔を上げて「できた!」って言って、その紙を両手で持ってパパの木工部屋のほうにとことこ走っていった。
届けたかったもの
パパはちょうど棚の修理をしていて、鉋の削りかすが足元にくるくる落ちてるところだった。ほのかが紙を差し出すと、パパは手を止めて、しゃがんで、受け取って。あの人、無口だから「おう」としか言わなかったんだけど、ほのかはそれで満足したみたいで、にこーっと笑って戻ってきた。目が三日月になるあの顔。
あとで見たら、パパ、その紙を作業台の横の壁にマスキングテープで貼ってた。ぐるぐるの赤と黄色の手紙。
なんだろうね、あれは。字も書けない、言葉もまだぽつぽつしか出ない子が、「お手紙」って聞いた瞬間に何かを受け取って、自分なりの形にして、届けたい人のところに走っていく。その一連の流れに、なんかこう……うわあ、ってなったんだよね。
手紙って、もともとそういうものだったんじゃないかなって思った。文字がきれいとか、内容がちゃんとしてるとか、そういうことじゃなくて。「あなたに渡したい」っていう、ただそれだけの温かさ。
磐梯おろしが来る前に
今朝は郡山もだいぶ冷え込んできて、窓の外の空気がきんとしてた。そろそろ磐梯おろしの季節だなあ。ほのかには手編みの靴下を二枚重ねにして、会津木綿のパッチワークのワンピースを着せた。あの子、会津木綿の少しざらっとした手触りが好きみたいで、裾のところを指でしょりしょり触りながら歩くの。
今日もまたチラシの裏にぐるぐる描いてた。「これ誰に書いてるの?」って聞いたら、しばらく考えて、「……おばあちゃん」って。実家の母のことかな。先月遊びに来てくれたとき、こづゆを一緒に作ったのが楽しかったんだろうね。貝柱を水で戻すときに、ほのかがボウルに手を突っ込んで冷たい水をぱしゃぱしゃやって、母が「あらあら」って笑ってたっけ。
届くかどうかわからない。読めるかどうかもわからない。でもあのぐるぐるの中に、この子なりの「伝えたいこと」が確かにあって、それはたぶん、冷たい水の感触とか、おばあちゃんの笑い声とか、貝柱のふわっとした匂いとか、そういう名前のつかないものたちなんだと思う。
まだ文字を持たないこの子の手紙は、たぶん世界で一番温かい。……って言ったら大げさかな。でもあのぐるぐるを壁に貼ったパパの気持ち、わかるなあと思うんだよね。
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