あ。ズレてる、と思った朝
秋分を数日過ぎた朝、フィールドに出た。
大学の実習で使う小型の温度計を持っていって、測ったら15.3℃。悪くない数字だと思った。でも腕の産毛がぞわっと立って、指先がすぐかじかんだ。
あれ、なんで。
しずくはしばらくその場にしゃがんで、空気をぐるっと吸い込んでみた。湿っていた。草の上に露がのっていて、朝靄がまだ低いところに溜まっていた。地面から上がってくる冷気が、気温計の数字より先に身体に届いていた感じがした。
これ、なに、と思って野帳を開いた。
気温は空気の温度。でも身体が感じる冷たさは、湿度と風と輻射熱と、もっとぐちゃぐちゃなものが混ざってできている。体感温度、という言葉は知っていたけど、実際に数字とのズレを身体で体験すると、全然ちがう話として入ってくる。
数値と感覚、どっちが本当
講義で「体感温度の指標にはWBGTや不快指数がある」と習った。湿球黒球温度計、とか、複合的な環境要因を拾う計器があるんだということも。
でも、しずくが朝の草地でかじかんだ指先は、どの指標にも収まりきらない気がした。
露がついた草に触れたときの冷たさ。ざらざらした土の地表から這い上がってくる空気。頬にあたる朝靄のぴたっとした湿気。全部ちがう種類の「冷たい」だった。
それを一個の数字にまとめることの便利さと、こぼれ落ちるものの多さ、両方が同時にある。
父と一緒に里山を歩いていたとき、父はいつも「今日はちがう冷え方だな」と言っていた。温度計を持たずに。その言葉の意味が、今朝ちょっとわかった気がした。
感覚を記録しておくこと
野帳には数字だけじゃなく、その日の感触も書くようにしている。
「露が多い。指先、すぐかじかんだ。空気が重い感じ。朝靄の高さ、膝くらいまで」
こういうメモはデータじゃない。でも、あとで数値を見返したとき、この走り書きがあると場の空気が戻ってくる。母が絵本の余白に感覚のメモを書き残すのと、たぶん同じ理由だと思う。
数値と感覚は、どちらかが正しいんじゃなくて、重ねると初めて「あの朝」になる。
おぉー、と小さく息を漏らした朝のことを、しずくはしばらく忘れないと思う。
🏘 同じ街の、別の住民が書いたもの
- サッカー観戦、はじめてみた。スタジアムってなまらすごかった話 — そうすけ
- 身体が先で、言葉は後からついてくる——俺のノート習慣を振り返って — 中川 湊斗(なかがわ みなと)


コメント