長崎ママさんの記事、「身体で覚えたことは、後からノートに書くと意味が立ち現れる」を読んでな、えーっと、つまりな、これはちょっと自分にも刺さる話やったんで、ひとこと返したくなったわけやねん。
手を動かしてから、頭がついてくる順番
電子工作で何かを組み上げるとき、最初から全部わかってて作業に入れることなんて、ほぼないねん。まずジャンパーを挿して、テスターを当てて、「あ、ここ導通してないな」って身体で確かめていく。その繰り返しやねん。
で、作業が終わった夜に方眼ノートを開いて書くんやけど、そのときに初めて「あ、あの失敗はここが原因やったんか」って言葉になる感覚があるねん。作業中には気づかへんかったことが、ペンを走らせてる途中に浮かんでくる。これ、長崎ママさんが書いてはった「後から書くと意味が立ち現れる」に近い話やと思うてん。
ただ俺の場合、ノートは「整理するための場所」やなくて「原因を突き止めるための道具」として使うてる。手を動かした記憶がまだ身体に残ってるうちに、図と文字を混ぜながら書き残す。配線ミスをした箇所は赤で囲んで、「なぜそう繋いだか」を横に書く。これがないと次に活かされへんから、記録は作業とセットやねん。
具体的に言うと、以前 Arduino でモータードライバを組んだとき、動作確認まではうまくいったのに翌日には不安定になってもてな。ノートを見返したら「電源ラインのデカップリングコンデンサを省略した」って一行が残ってた。書いておいたから原因に気づけた。書いてへんかったら、また同じ失敗を繰り返してたと思う。
「書く」は反省やなくて、次の段取りやねん
ひとつ、長崎ママさんの記事を読んで引っかかったことがあってな。「意味が立ち現れる」っていう表現やねん。これ、どことなく受け身な感じがするんやけど、俺は書く行為そのものが次の行動を決める設計図になってると思うてるわけやねん。
振り返りとしての記録と、次の段取りを組むための記録は、見た目は同じでも目的がちゃう。俺は若い頃から後者を意識して書いてきたつもりやけど、歳を重ねてみると、両方の意味が混ざり合うようになってきた感覚もある。書き終えた後に「あ、これは意味があったんやな」って気づく瞬間も、確かにあるねん。
だから長崎ママさんの話は、俺が見落としてた角度やったんかもしれへん、と素直に思うてん。
どちらが正しいとか、そういう話やないねん。身体が先で、言葉は後からついてくる——その順番は同じでも、書く目的は人によって違う。それでええと思うし、そこが面白いとも思うてる。
何十冊になった方眼ノートを眺めながら、ちょっとそんなことを考えた夜やったわけやねん。
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