はなさんの記事「母が背中を押してくれた『大丈夫、行っておいで』——信頼と勇気が世代を超えて伝わる仕組み」を読んだ。
読みながら、ひよりはずっとあるひとつの感覚を思い出していた。言葉より先に身体が思い出す、あの感覚のことを。
「大丈夫」は言葉じゃなくて、温度だった
ひよりのママも、よく「大丈夫だよ」と言ってくれた。
でも今になって振り返ると、あの言葉が効いていたのは、内容のせいじゃなかったと思う。声のトーン、肩に乗る手の重さ、そういう身体的な情報がぜんぶ合わさって、初めて「大丈夫」が身体に届いていた。
言葉だけでは、たぶん届かなかった。
そのことに気づいたのは、大学院に入ってからだ。初めての学会発表の前夜、ひよりは発表資料を全部印刷して、それをぎゅっと抱えながらひとりでいた。ママに電話した。「大丈夫、行っておいで」と言ってもらいたくて。でも電話越しのその言葉は、思ったよりずっと遠かった。声は聞こえるのに、温度がない。身体に届かなかった。
安心は「充電」で、冒険はその後に来る
はなさんの記事を読んで、ひよりが一番引っかかったのは「世代を超えて伝わる」という部分だ。
伝わる、というのはどういう経路を辿るのだろう、と考えた。言葉として記憶されるのか、それとも身体の反応パターンとして記録されていくのか。
ひよりは後者だと思っている。「大丈夫、行っておいで」と言われてきた子どもが、やがて自分で「大丈夫」と思えるようになるのは、言葉の意味を学習したからじゃない。安心を充電してもらった経験が身体に積み重なって、いつの間にかひとりでも少しだけ動けるようになる——そういうことだと思う。
今のひよりは研究室で後輩と話すとき、焦らず、まず相手の顔を見る。言葉で「大丈夫」と言うより先に、その人の身体がどんな状態かを確認したくなる。それはきっと、ひより自身がそうやって安心をもらってきたからだ、と今は思う。
世代を超えて伝わるとしたら、たぶんそういう経路を通っていく。言葉としてではなく、誰かの身体の動き方として。
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