記録をやめたとき、経験はただの過去になる
矢島がゴルフのスコア記録をつけ始めたのは、30代の半ばのことです。最初はごく単純な動機でした。「なぜ同じミスを繰り返すのか、自分でもわからない」という、その一点だけだったと思います。
ここが肝なんですが——記録とは、自分を外から見るための装置です。打った感覚、選んだクラブ、そのときの風と傾斜。その一打一打を手帳に書き留めていくと、数ヶ月後に「あぁ、矢島は左ドッグレッグで必ずショートしている」という共通認識から、課題の正体がようやく見えてくることになります。
感覚だけでは、ズレに気づけない
人間の記憶というのは、都合よく書き換わるものだと考えています。「今日はまあまあだった」という感覚は、実際のスコアとしばしばズレている。以前こういうケースがありまして——同じコースを年に3回ほど回っているのに、毎年「あのバンカーは初めての感覚だ」と思う自分に気づいたことがあります。記録を見返すと、まったく同じ番手で同じバンカーに捕まっていた。記録がなければ、その暗黙知は永遠に暗黙のままだったということに気づく。
要は、感覚は上書きされるが、数字は上書きされない。この非対称性が、記録の本質的な価値だということです。
経験を資産に変える三つの構造
記録が単なるログではなく「資産」になるには、三つの段階があると矢島は考えています。
- 蓄積:出来事と数値を、その日のうちに残す
- 照合:定期的に過去と現在を並べて見る
- 解釈:パターンを言語化し、次の判断に組み込む
この三段階を踏まなければ、経験はただ古くなるだけです。蓄積だけで止まっている人を、職場でも何人も見てきました。手帳は立派だが、見返さない。要は、記録は読み返すことで初めて機能するということなんですが。
意思決定の解像度という考え方
30年分の記録を積み上げてわかったのは、「自分がどういう局面で判断を誤るか」という傾向が、驚くほど一貫しているということです。ピンチになると攻めすぎる。余裕があると選択が雑になる。この学習は、ゴルフだけに留まらなかった。人事の現場でも、予算編成の場でも、似たような自分の癖が顔を出すことが示唆される。
意思決定の解像度とは、「自分がどういう条件下でどう判断するか」を自分自身が把握している精度のことです。記録の蓄積は、この解像度を少しずつ、しかし確実に高めていく。
いやぁ、30年かけてようやく言語化できたことです。急いでも仕方ない話だとは思っていますが、それでも早いほど損は少ない——そういう結論に至るわけです。
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