畑仕事って、気づいたら手が勝手に動いとる瞬間があるんよね。
この前さ、貸し農園でいつも通りミニトマトの脇芽を摘んどったら、隣の区画のおじちゃんに「どこで見分けよると?」って聞かれて。え、と思って自分の手を見たら、もう次の脇芽に指がかかっとった。「えーっとね……なんていうかな、ここの、葉っぱと茎のあいだから出てくるやつ……」って説明しようとするんやけど、言葉にした瞬間に、なんか違うなって思う。
実際は「見分けている」んじゃなくて、触った感触とか、茎の角度とか、もっとぼんやりした何かで手が動いとる。それを「ここがこうだから」って理屈にした途端、自分のやっていることがすごく平たくなる感じがして。おじちゃんには一応説明したけど、帰り道にずっとモヤモヤしとった。
うちの場合はね、最初の頃は全部メモしとったんよ。水やりの量、肥料のタイミング、摘芯した日。ノートに細かく書いて。でも二年目くらいから書かんくなった。書かんでもわかるようになった、というより、書くことと実際やることのあいだにズレが出てきた感じ。ノートには「本葉5枚で摘芯」って書いてあるけど、実際は葉の厚みとか、株全体の元気さとか、その日の土の湿り具合で判断が変わっとる。記録が追いつかんくなるっちゃけど、それは記録が下手なんじゃなくて、身体が拾っている情報量のほうが多いんやろうなって。
これ、育児でも似たことがあって。子どもの機嫌が崩れる前の「あ、来るな」っていう感覚。呼吸のリズムとか、手の握り方とか、たぶん見てるんやけど、何を見てるか自分でもうまく言えん。支援センターで「うちの子こういうとき泣くんです」って相談されたとき、「あ、それわかる〜」とは言えるのに、じゃあどう対処しとるかを言語化しようとすると、途端にぼやける。
なんていうかな、反復って記録を不要にしていくんやけど、同時に「自分が何を知っているか」も見えにくくしていく気がする。身体に染み込んだ知恵は確かにそこにあるのに、取り出そうとすると形が崩れる。それがちょっと怖くもあり、でもまあ、崩れるならそれはそれでいいかなって思うんよね。全部を言葉にせんでも、手は明日もちゃんと動くけんね。
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